粟田知周《あわたともちか》について歌道を修め、京都に上って冷泉《れいぜい》殿の歌会に列したこともあり、その後しばらく伴蒿蹊《ばんこうけい》に師事したこともあるという閲歴を持つ人である。半蔵がこの人に心をひかれるようになったのは、自分の先師平田篤胤と同時代にこんなに早く古道の真髄に目のさめた人が飛騨あたりの奥山に隠れていたのかと思ったばかりでなく、幾多の古書の校訂をはじめ物語類解釈の模範とも言うべき『竹取翁物語解』のごときよい著述をのこしたと知ったばかりでもなく、あの篤胤大人に見るような熱烈必死な態度で実行に迫って行った生き方とも違って、実にこの人がめずらしい「笑い」の国学者であったからで。
荏野の翁が事蹟《じせき》も多い。飛騨の国内にある古社の頽廃《たいはい》したのを再興したり、自らも荏野神社というものを建ててその神主となり郷民に敬神の念をよび起こすことに努めたりした。あるいは美濃の養老の瀑《たき》の由緒《ゆいしょ》を明らかにした碑を建て、あるいは美濃|垂井清水《たるいしみず》に倭建命《やまとたけるのみこと》の旧蹟を考証して、そこに居寤清水《いさめのしみず》の碑を建て、あるいはまた、継体天皇の御旧居の地を明らかにして、その碑文をえらみ、越前《えちぜん》足羽《あすは》神社の境内に碑を建てたのも、この翁だ。そうした敬神家の大秀はもとより仏法の崇拝とは相いれないのを知りながらも、金胎《こんたい》両部、あるいは神仏同体がこの国人の長い信仰で、人心を導くにはそれもよい方法とされたものか、翁が菩提寺《ぼだいじ》はもちろん、郷里にある寺々の由緒をことごとく調査して仏を大切に取り扱い、頽廃したものは興し、衰微したものは助け、各|檀家《だんか》のものをして祖先の霊を祭る誠意をいたすべきことを覚《さと》らしめた。思いがけないような滑稽《こっけい》がこの老翁の優しい口もとから飛び出す。郷里に盆踊りでもある晩は、にわか芸づくし拝見と出かける。四番盆、結構、随分おもしろく派手にやれやれと言った調子であったらしい。翁のトボケた口ぶりは、ある村の人にあてた手紙の中の文句にもよく残っている。
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オドレヤオドレヤ。オドルガ盆ジャ。マケナヨマケナヨ、アスノ夜ハナイゾ。オドレヤオドレヤ。
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半蔵が聞きつけたのも、この声だ。かなしみの奥のほほえみ、涙の奥の
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