るから、ここに鉄道を敷設するなら産物運送と山国開拓の一端となるばかりでなく、東西両京および南北両海の交通を容易ならしめるであろうということであった。ボイルが測量隊を率いて二回にもわたり東山道を踏査し、早くも東京と京都の間をつなぐ鉄道幹線の基礎計画を立て、その測量に関する結果を政府に報告し、東山道線および尾張線《おわりせん》の径路、建築方法、建築用材および人夫、運輸、地質検査、運賃計算等を明細にあげ示したのも、この趣意にもとづく。
今度のホルサムが内地の旅は、大体においてこの先着の英国人が測量標|杭《ぐい》を残したところであった。ボイルの計画した線は東京より高崎に至り、高崎より松本に至り、さらに松本より加納に至るので、松本加納間を百二十五マイルと算してある。それには松本から、洗馬《せば》、奈良井《ならい》を経て、鳥居峠の南方に隧道《トンネル》を穿《うが》つの方針で、藪原《やぶはら》の裏側にあたる山麓《さんろく》のところで鉄道線は隧道より現われることになる。それから追い追いと木曾川の畔《ほとり》に近づき、藪原と宮《みや》の越《こし》駅の間でその岸に移り、徳音寺村に出、さらに岸に沿うて木曾福島、上松《あげまつ》、須原《すはら》、野尻《のじり》、および三留野《みどの》駅を通り、また田立村《ただちむら》を過ぎて界《さかい》の川で美濃の国の方にはいる方針である。
木曾路にはいって見たホルサムはいたるところの谷の美しさに驚き、また、あのボイルがいかに冷静な意志と組織的な頭脳とをもってこの大きな森林地帯をよく観察したかをも知った。ボイルの書き残したものによると、奈良井と藪原の間に存在する鳥居峠一帯の山脈は日本の西北ならびに東南の両海浜に流出する流水を分界するものだと言ってある。またこの近傍において地質の急に変革したところもある、すなわちその北方|犀川《さいがわ》筋の地方はおもに破砕した翠増《すいぞう》岩石から成り立っていて、そしてその南方木曾川の谷は数マイルの間おもに大口火性石の谷側に連なるのを見るし、また、河底は一面に大きな塊《かたまり》の丸石でおおわれていると言ってある。木曾川は藪原辺ではただの小さな流れであるが、木曾福島の近くに至って御嶽山《おんたけさん》から流れ出るいちじるしい水流とその他の支流とを合併して、急に水量を増し、東山道太田駅からおよそ九マイルを隔てた上流にあ
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