は琉球《りゅうきゅう》の菰包《こもづつみ》にして、平兵衛と共に馬荷に付き添いながら左衛門町の門《かど》を離れた。
「どれ、そこまでわたしも御一緒に。」
という多吉はあわただしく履物《はきもの》を突ッかけながら、左衛門橋の上まで半蔵らを追って来た。上京以来、半蔵が教部省への勤め通いに、町への用達しに、よく往復したその橋のほとりも、左衛門町の二階と引き離しては彼には考えられないようなものであった。その朝の河岸《かし》に近く舫《もや》ってある船、黒ずんで流れない神田川の水、さては石垣《いしがき》の上の倉庫の裏手に乾《ほ》してある小さな鳥かごまでが妙に彼の目に映った。
王政復古以来、すでに足掛け八年にもなる。下から見上げる諸般の制度は追い追いとそなわりつつあったようであるが、一度大きく深い地滑《じすべ》りが社会の底に起こって見ると、何度も何度も余りの震動が繰り返され、その影響は各自の生活に浸って来ていた。こんな際に、西洋文物の輸入を機会として、種々雑多の外国人はその本国からも東洋植民地からも入り込みつつあった。それらのヨーロッパ人の中には先着の客の意見を受け継ぎ、日本人をして西洋文明を採用せしめるの途《みち》は、強力によって圧倒するか、さなくば説諭し勧奨するか、そのいずれかを出《い》でないとの尊大な考えを抱《いだ》いて来るものがある。衰余の国民が文明国の干渉によって勃興《ぼっこう》した例は少ないが、今は商業も著しく発達し、利益と人道とが手を取って行く世の中となって来たから、よろしく日本を良導して東洋諸衰残国の師たる位置に達せしめるがいいというような、比較的同情と親愛とをもって進んで来るものもある。ヨーロッパの文明はひとり日本の政治制度に限らず、国民性それ自身をも滅亡せしめる危険なくして、はたして日本の国内にひろめうるか、どうか。この問いに答えなければならなかったものが日本人のすべてであった。当時はすでに民選議院建白の声を聞き、一方には旧士族回復の主張も流れていた。目に見えない瓦解《がかい》はまだ続いて、失業した士族から、店の戸をおろした町人までが互いに必死の叫びを揚げていた。だれもが何かに取りすがらずにはいられなかったような時だ。半蔵は多くの思いをこの東京に残して、やがて板橋経由で木曾街道の空に向かった。
五
「お師匠さま。」
その呼び声は、雪道
前へ
次へ
全245ページ中122ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング