一個としてはまずまず忍耐していたいと言って帰って行く。やがて、夕飯にはまだすこし間のあるころに、半蔵は妻と二人《ふたり》ぎりで店座敷に話すことのできる時を見つけた。
「いや、お粂のやつが妙なことを言い出した。」
 とその時、半蔵は娘のことをお民の前に持ち出した。彼はその言葉をついで、
「何さ。おれが王滝へ行くなら、あれも一緒に供をさせてくれと言うんさ。」
「まあ。」
「御嶽里宮《おんたけさとみや》のことはあれも聞いて知ってるからね、何かお参りでもしたいようなあれの口ぶりさ。」
「そんな話はわたしにはしませんよ。」
「あれも思い直したんだろう。なんと言ってもお粂もまだ若いなあ。おれがあのお父《とっ》さんの病気を祷《いの》りに行った時にも、勝重《かつしげ》さんが一緒について行くと言って困った。あの時もおれは清助さんに止められて、あんな若い人を一緒に参籠《さんろう》に連れて行かれますかッて言われた。それでも勝重さんは行きたいと言うもんだから、しかたなしに連れて行った。懲りた。今度はおれ一人だ。それに娘なぞを連れて行く場合じゃない。ごらんな、十八やそこいらで、しかも女の足で、あんなお宮の方へ行かれるものかね。ばかなッて、おれはしかって置いたが。」
「まあ、嫁入り前のからだで、どうしてそんな気になるんでしょう。」
 夫婦の間にはこんな話が出る。お民はわざわざ妻籠まで行って来た娘の縁談のことをそこへ言い出そうとして、幾度となく口ごもった。相談らしい相談もまとまらずじまいに帰って来たからであった。半蔵の方で聞きたいと思っていたことも、それについての妻籠の人たちの意見であるが、お民はまず生家《さと》に着いた時のことから、あの妻籠旧本陣の表庭に手造りの染め糸を乾《ほ》していたおばあさんやお里を久しぶりに見た時のことからその話を始める。着いた日の晩に、和助を早く寝かしつけて置いて、それからおばあさんや兄や嫂《あによめ》と集まったが、お粂のようすを生家《さと》の人たちの耳に入れただけで、その晩はまだ何も言い出せなかったという話になる。「フム、フム。」と言って聞いていた半蔵は話の途中でお民の言葉をさえぎった。
「つまり、おばあさんたちはどう言うのかい。」
「まあ、兄さんの意見じゃ、この縁談はすこし時がかかり過ぎたと言うんですよ。もっとずんずん運んでしまうとよかったと言うんですよ。」
「いや
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