を張り替えて置いてある。上京以来すでに半年あまりも寝起きをして見れば、亭主多吉の好みで壁の上に掛けて置く小額までが彼には親しみのあるものとなっている。
過ぐる五日の暗さ。彼は部屋に戻《もど》っていろいろと片づけ物なぞしながら、檻房《かんぼう》の方に孤坐《こざ》した時の自分のこころもちを思いかえした。彼の行為が罪に問われようとして東京裁判所の役人の前に立たせられた時、彼のわずかに申し立てたのは、かねて耶蘇教《ヤソきょう》の蔓延《まんえん》を憂い、そのための献言も仕《つかまつ》りたい所存であったところ、たまたま御通輦を拝して憂国の情が一時に胸に差し迫ったということであった。ちょうど所持の扇子に自作の和歌一首しるしつけて罷《まか》り在《あ》ったから、御先乗《おさきのり》とのみ心得た第一のお車をめがけて直ちにその扇子をささげたなら、自然と帝のお目にもとまり、国民教化の規準を打ち建てる上に一層の御英断も相立つべきかと心得たということであった。
すくなくもこの国の前途をおのが狭い胸中に心配するところから、彼もこんな行為に出た。ただただそれが頑《かたくな》な心のあらわれのように見られることはいかにも残念であるとするのが、彼の包み隠しのないところである。開国以前のものは皆、一面に西洋を受けいれながら、一面には西洋と戦った。不幸にも、この国のものがヨーロッパそのものを静かによく見うるような機会を失ったことは、二度や三度にとどまらない。かく内に動揺して、外を顧みるいとまもないような時に、歴史も異なり風土も異なり言葉も異なる西洋文明の皮相を模倣するのみで、それと戦うことをしなかったら、末ははたしてどうなろう。そのことがすでに彼には耐えられなかった。そういう彼とても、ただ漫然と異宗教の蔓延《まんえん》を憂いているというではない。もともと切支丹宗《キリシタンしゅう》取り扱いの困難は織田信長《おだのぶなが》時代からのこの国のものの悩みであって、元和《げんな》年代における宗門|人別帳《にんべつちょう》の作製も実はその結果にほかならない。長い鎖国が何のためかは、宗門のことをヌキにしては考えられないことであった。いよいよこの国を開くに当たって、新時代が到来した時、あの厩戸皇子《うまやどのおうじ》が遠い昔にのこした言葉と言い伝えらるるものは、また新時代に役立つことともなった。すなわち、神道をわが国
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