もない時の友としてもよし、こんな彼の言葉も継母をよろこばせるのであった。
ちょうど、お民も妻籠《つまご》の生家《さと》の方へ出かけてまだ帰って来ない時である。半蔵のそばへ来て祖母たちと一緒に屏風の出来をいろいろに言って見るお粂も、もはや物に感じやすい娘ざかりの年ごろに達している。彼女は、母よりも父を多くうけついだ方で、その風俗《なり》なぞも嫁入り前の若さとしてはひどく地味づくりであるが、襟《えり》のところには娘らしい紅梅の色をのぞかせ、それがまた彼女によく似合って見えた。彼女はまた、こうした父の意匠したものなぞにことのほかのおもしろみを見つける娘で、これを父が書く時にも、そのそばに来て墨をすろうと言い、紙にむかって筆を持った父の手から彼女の目を放さなかったくらいだ。もともとこの娘の幼い時分から親の取りきめて置いた許嫁《いいなずけ》を破約に導いたのも、一切のものを根から覆《くつがえ》すような時節の到来したためであり、これまでどおりの家と家との交際もおぼつかないからというのであって、旧《ふる》い約束事なぞは大小となく皆押し流された。小さな彼女の生命《いのち》が言いあらわしがたい打撃をこうむったのも、その時であった。でも、彼女はそうしおれてばかりいるわけでもない。祖母のためにと父の造った屏風なぞができて見ると、彼女はその深傷《ふかで》の底からたち直ろうとして努めるもののごとく平素の調子に帰って、娘らしい笑い声で父の心までも軽くさせる。
実に久しぶりで、半蔵は家のものと一緒にこんな時を送った。かねて長いこと心がけたあげくにできた隠居所向きの小屏風のそばなぞにわずかの休息の時を見つけるすら、彼にはめずらしいことであった。二月のはじめ以来、彼がその懐《ふところ》に筑摩《ちくま》県庁あての嘆願書の草稿を入れた時から、あちこちの奔走をつづけていて、ほとんど家をかえりみる暇《いとま》もなかったような人である。この奔走が半蔵にとって容易でなかったというは、戸長(旧|庄屋《しょうや》の改称)としての彼が遠からずやって来る地租改正を眼前に見て、助役相手にとかくはかの行かない地券調べのようなめんどうな仕事を控えているからであった。一方にはまた、学事掛りとしても、村の万福寺の横手に仮校舎の普請の落成するまで、さしあたり寺内を仮教場にあて、従来寺小屋を開いていた松雲和尚《しょううんおしょう》
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