かせたもうたことを思い、官武一途はもとより庶民に至るまでおのおのその志を遂げよとの誓いを立てて多くのものと共に出発したもうたことを思い、御東行以来侍講としての平田鉄胤にも師事したもうた日のあることを思い、その帝がようやく御歳二十二、三のうら若さであることを思って、なんとなく涙が迫った。彼の腰には、宿を出る時にさして来た一本の新しい扇子がある。その扇面には自作の歌一首書きつけてある。それは人に示すためにしるしたものでもなかったが、深い草叢《くさむら》の中にある名もない民の一人《ひとり》でも、この国の前途を憂うる小さなこころざしにかけては、あえて人に劣らないとの思いが寄せてある。東漸するヨーロッパ人の氾濫《はんらん》を自分らの子孫のためにもこのままに放任すべき時ではなかろうとの意味のものである。その歌、

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蟹《かに》の穴ふせぎとめずは高堤《たかづつみ》やがてくゆべき時なからめや     半蔵
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 この扇子を手にして、彼は御通輦を待ち受けた。
 さらに三十分ほど待った。もはや町々を警《かた》めに来る近衛《このえ》騎兵の一隊が勇ましい馬蹄《ばてい》の音も聞こえようかというころになった。その鎗先《やりさき》にかざす紅白の小旗を今か今かと待ち受け顔な人々は彼の右にも左にもあった。その時、彼は実に強い衝動に駆られた。手にした粗末な扇子でも、それを献じたいと思うほどのやむにやまれない熱い情《こころ》が一時に胸にさし迫った。彼は近づいて来る第一の御馬車を御先乗《おさきのり》と心得、前後を顧みるいとまもなく群集の中から進み出て、そのお馬車の中に扇子を投進した。そして急ぎ引きさがって、額《ひたい》を大地につけ、袴《はかま》のままそこにひざまずいた。
「訴人《そにん》だ、訴人だ。」
 その声は混雑する多勢の中から起こる。何か不敬漢でもあらわれたかのように、互いに呼びかわすものがある。その時の半蔵はいち早くかけ寄る巡査の一人に堅く腕をつかまれていた。大衆は争ってほとんど圧倒するように彼の方へ押し寄せて来た。
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     第十二章

       一

 五日も半蔵は多吉の家へ帰らない。飛騨《ひだ》の水無《みなし》神社|宮司《ぐうじ》を拝命すると間もなく、十一月十七日の行幸の朝に神田橋外まで御通輦《ごつうれん》を拝しに行くと言って、
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