久年代から王事に奔走した伊那伴野《いなともの》村出身の松尾多勢子《まつおたせこ》の名もその参列者の中に見いだされた。香蔵の筆はそうこまかくはないが、きのうはだれにあった、きょうはだれを訪ねたという記事なぞが、平田派全盛の往時を語らないものはない。
医者の文箱《ふばこ》に入れてあったせいかして、なんとなく香蔵の日記に移った薬のにおいまでが半蔵にはなつかしまれた。彼は友人と対坐《たいざ》でもするように、香蔵の日記を繰り返してそこにいない友人の前へ自分を持って行って見た。今は伊勢宇治《いせうじ》の今北山に眠る旧師から、生前よく戯れに三蔵と呼ばれた三人の学友のうち、その日記を書いた香蔵のように郷里中津川に病むものもある。同じ中津川に隠れたぎり、御一新後はずっと民間に沈黙をまもる景蔵のようなものもある。これからさらに踏み出そうとして、人生|覊旅《きりょ》の別れ路《みち》に立つ彼半蔵のようなものもある。
四
飛騨《ひだ》国大野郡、国幣小社、水無《みなし》神社、俗に一の宮はこの半蔵を待ち受けているところだ。東京から中仙道《なかせんどう》を通り、木曾路《きそじ》を経て、美濃《みの》の中津川まで八十六里余。さらに中津川から二十三里も奥へはいらなければ、その水無神社に達することができない。旅行はまだまだ不便な当時にあって、それだけも容易でない上に、美濃の加子母村《かしもむら》あたりからはいる高山路《たかやまみち》と来ては、これがまた一通りの険しさではない。あの木曾谷から伊那の方へぬける山道ですら、昼でも暗い森に、木から落ちる山蛭《やまびる》に、往来《ゆきき》の人に取りつく蚋《ぶよ》に、勁《つよ》い風に鳴る熊笹《くまざさ》に、旅するものの行き悩むのもあの山間《やまあい》であるが、音に聞こえた高山路はそれ以上の険しさと知られている。
この飛騨行きは、これを伝えてくれた恭順を通して田中不二麿からも注意のあったように、左遷なぞとは半蔵の思いもよらないことであった。たとい教部省あたりの同僚から邪魔にされて、よろしくあんな男は敬して遠ざけろぐらいのことは言われるにしても、それを意《こころ》にかける彼ではもとよりない。ただ、そんな山間に行って身を埋《うず》めるか、埋めないかが彼には先決の問題で、容易に決心がつきかねていた。
その時になると、多くの国学者はみな進むに難い時勢に
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