なき無格の小寺も、本山への献金によつて寺格を進めらるることのあれば、昨日にび色の法衣着たる身の今日は緋色《ひいろ》を飾るも、また黄金の力たり。堂塔の新築改造には、勧進《かんじん》、奉化《ほうげ》、奉加《ほうが》とて、浄財の寄進を俗界に求むれども、実は強請に異ならず。その堂内に通夜する輩《やから》も風俗壊乱の媒《なかだち》たり。」とはすでに元禄の昔からである。全国寺院の過多なること、寺院の富用無益のこと、僧侶の驕奢《きょうしゃ》淫逸《いんいつ》乱行|懶惰《らんだ》なること、罪人の多く出ること、田地境界訴訟の多きこと等は、第三者の声を待つまでもなく、仏徒自身ですら心あるものはそれを認めるほどの過去の世相であったのだ。
大きな破壊の動いた跡はそこにも驚かれるほどのものがある。利にさとい寺方が宮公卿《みやくげ》の名目で民間に金を貸し付け、百姓どもから利息を取り立てる行為なぞはまッ先に鎗玉《やりだま》にあげられた。仁和寺《にんなじ》、大覚寺をはじめ、諸|門跡《もんぜき》、比丘尼御所《びくにごしょ》、院家、院室等の名称は廃され、諸家の執奏、御撫物《おさすりもの》、祈祷巻数《きとうかんじゅ》ならびに諸献上物もことごとく廃されて、自今僧尼となるものは地方官庁の免許を受けなければならないこととなった。虚無僧《こむそう》の廃止、天社神道の廃止、修験宗《しゅげんしゅう》の廃止に続いて、神社仏閣の地における女人結界の場処も廃止された。この勢いのおもむくところは社寺領上地の命令となり、表面ばかりの禁欲生活から僧侶は解放され、比丘尼の蓄髪と縁付きと肉食と還俗《げんぞく》もまた勝手たるべしということになった。従来、祇園《ぎおん》の社も牛頭《ごず》天王と呼ばれ、八幡宮《はちまんぐう》も大菩薩と称され、大社|小祠《しょうし》は事実上仏教の一付属たるに過ぎなかったが、天海僧正《てんかいそうじょう》以来の僧侶の勢力も神仏|混淆《こんこう》禁止令によって根から覆《くつがえ》されたのである。
半蔵が教部省に出て仕えたのは、こんな一大変革のあとをうけて神社寺院の整理もやや端緒についたばかりのころであった。かねて神祇官時代には最も重要な地位に置かれてあった祭祀《さいし》の式典すら、彼の来て見たころにはすでに式部寮の所管に移されて、その一事だけでも役所の仕事が平田派諸先輩によって創《はじ》められた出発当時の意
前へ
次へ
全245ページ中84ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング