を本陣に届けいでよと触れ出されたくらいだ。総督一行は万民塗炭の苦しみを救わせられたいとの叡旨《えいし》をもたらして来たからである。だれ一人《ひとり》、そのおりに百姓の中から進んで来るものもなくて、今になってこんな手段に訴えるとは。
 にわかな物価の騰貴も彼の胸に浮かぶ。横浜開港当時の経験が教えるように、この際、利に走る商人なぞが旧正銀|買〆《かいしめ》のことも懸念されないではなかった。しかし、たとい新紙幣の信用が薄いにしても、それはまだ発行まぎわのことであって、幕府積年の弊政を一掃しようとする新政府の意向が百姓に知られないはずもない。これが半蔵の残念におもう点であった。その晩は、彼は山中の宿場らしい静かなところに来ていて、いろいろなことを思い出すために、よく眠らなかった。


 中津川まで半蔵らは帰って来た。百姓の騒いだ様子は大井で聞いたよりも一層はっきりした。百姓仲間千百五十余人、その主《おも》なものは東濃|界隈《かいわい》の村民であるが、木曾地方から加勢に来たものも多く、まさかと半蔵の思った郷里の百姓をはじめ、宿方としては馬籠のほかに、妻籠《つまご》、三留野《みどの》、野尻《のじり》、在方《ざいかた》としては蘭村《あららぎむら》、柿其《かきそれ》、与川《よがわ》その他の木曾谷の村民がこの一揆の中に巻き込まれて行ったことがわかった。それらの百姓仲間は中津川の宿はずれや駒場村《こまばむら》の入り口に屯集《とんしゅう》し、中津川大橋の辺から落合《おちあい》の宿へかけては大変な事になって、そのために宿々村々の惣役人《そうやくにん》中がとりあえず鎮撫《ちんぶ》につとめたという。一揆の起こった翌日には代官所の役人も出張して来たが、村民らはみなみな中津川に逗留《とうりゅう》していて、容易に退散する気色《けしき》もなかったとか。
 半蔵が平兵衛を連れて歩いた町は、中津川の商家が軒を並べているところだ。壁は厚く、二階は低く、窓は深く、格子《こうし》はがっしりと造られていて、彼が京都の方で見て来た上方風《かみがたふう》な家屋の意匠が採り入れてある。木曾地方への物資の販路を求めて西は馬籠から東は奈良井《ならい》辺の奥筋まで入り込むことはおろか、生糸《きいと》売り込みなぞのためには百里の道をも遠しとしない商人がそこに住む。万屋安兵衛《よろずややすべえ》、大和屋李助《やまとやりすけ》、その他、一時は下海道辺の問屋から今渡《いまど》の問屋仲間を相手にこの界隈《かいわい》の入り荷|出荷《でに》とも一手に引き受けて牛方事件の紛争まで引き起こした旧問屋|角屋《かどや》十兵衛の店などは、皆そこに集まっている。今度の百姓一揆はその町の空を大橋の辺から望むところに起こった。うそか、真実《まこと》か、竹槍《たけやり》の先につるした蓆《むしろ》の旗がいつ打ちこわしにかつぎ込まれるやも知れなかったようなうわさが残っていて、横浜貿易でもうけた商家などは今だに目に見えないものを警戒しているかのようである。
 中津川では、半蔵は友人景蔵の留守宅へも顔を出し、香蔵の留守宅へも立ち寄った。一方は中津川の本陣、一方は中津川の問屋、しっかりした留守居役があるにしても、いずれも主人らは王事のために家を顧みる暇《いとま》のないような人たちである。こんな事件が突発するにつけても、日ごろのなおざりが思い出されて、地方《じかた》の世話も届きかねるのは面目ないとは家の人たちのかき口説《くど》く言葉だ。ことに香蔵が国に残して置く妻なぞは、京都の様子も聞きたがって、半蔵をつかまえて放さない。
「半蔵さん、あなたの前ですが、宅じゃ帰ることを忘れましたようですよ。」
 そんなことを言って、京には美しい人も多いと聞くなぞと遠回しににおわせ、夫恋《つまこ》う思いを隠しかねている友人の妻が顔をながめると、半蔵はわずかの見舞いの言葉をそこに残して置いて来るだけでは済まされなかった。供の平兵衛が催促でもしなかったら、彼は笠《かさ》を手にし草鞋《わらじ》をはいたまま、その門口をそこそこに辞し去るにも忍びなかった。

       三

 さらに落合の宿まで帰って来ると、そこには半蔵が弟子《でし》の勝重《かつしげ》の家がある。過ぐる年月の間、この落合から湯舟沢、山口なぞの村里へかけて、彼が学問の手引きをしたものも少なくなかったが、その中でも彼は勝重ほどの末頼もしいものを他に見いださなかった。その親しみに加えて、勝重の父親、儀十郎はまだ達者《たっしゃ》でいるし、あの昔気質《むかしかたぎ》な年寄役らしい人は地方の事情にも明るいので、先月二十九日の出来事を確かめたいと思う半蔵には、その家を訪《たず》ねたらいろいろなことがもっとよくわかろうと考えられた。
「おゝお師匠さまだ。」
 という声がして、勝重がまず稲葉屋《いなばや》の裏口から飛んで来る。奥深い入り口の土間のところで、半蔵も平兵衛も旅の草鞋《わらじ》の紐《ひも》をとき、休息の時を送らせてもらうことにした。
 しばらくぶりで半蔵の目に映る勝重は、その年の春から新婚の生活にはいり、青々とした月代《さかやき》もよく似合って見える青年のさかりである。半蔵は今度の旅で、落合にも縁故の深い宮川寛斎の墓を伊勢の今北山に訪《たず》ねたことを勝重に語り、全国三千余人の門人を率いる平田|鉄胤《かねたね》をも京都の方で見て来たことを語った。それらの先輩のうわさは勝重をもよろこばせたからで。
 稲葉屋では、囲炉裏ばたに続いて畳の敷いてあるところも広い。そこは応接間のかわりでもあり、奥座敷へ通るものが待ち合わすべき場処でもある。しばらく待つうちに、勝重の母親が半蔵らのところへ挨拶《あいさつ》に来た。めっきり鬢髪《びんぱつ》も白くなり、起居振舞《たちいふるまい》は名古屋人に似て、しかも容貌《ようぼう》はどこか山国の人にも近い感じのする主人公が、続いて半蔵らを迎えてくれる。その人が勝重の父親だ。落合宿の年寄役として、半蔵よりもむしろ彼の父吉左衛門に交わりのある儀十郎だ。
「あなたがたは今、京都からお帰り。それは、それは。」と儀十郎が言った。「勝重のやつもあなたのおうわさばかり。あれが御祝言の前に、わざわざあなたにお越しを願って、元服の式をしていただいたことは、どれほどあれにはうれしかったかしれません。これはお師匠さまに揚げていただいた髪だなんて、今だによろこんでいまして。」
 儀十郎はその時、裏口の方から顔を出した下男を呼んで、勝重が若い妻に客のあることを知らせるようにと言い付けた。
「よめも今、裏の方へ行って茄子《なす》を漬《つ》けています――よめにもあってやっていただきたい。」
 こんな話の出ているところへ、勝重の母親が言葉を添えて、
「あなた、奥へ御案内したら。」
「じゃ、そうしようか。半蔵さんもお急ぎだろうが、茶を一つ差し上げたい。」
 とまた儀十郎が言った。
 やがて半蔵が平兵衛と共に案内されて行ったところは、二間《ふたま》続きの奥まった座敷だ。次ぎの部屋《へや》の方の片すみによせて故人|蘭渓《らんけい》の筆になった絵屏風《えびょうぶ》なぞが立て回してある。半蔵らもこの落合の宿まで帰って来ると、峠一つ越せば木曾の西のはずれへ出られる。美濃派の俳諧《はいかい》は古くからこの落合からも中津川からも彼の郷里の方へ流れ込んでいるし、馬籠出身の画家蘭渓の筆はまたこうした儀十郎の家なぞの屏風を飾っている。おまけに、勝重の迎えた妻はまだようやく十七、八のういういしさで、母親のうしろに添いながら、挨拶かたがた茶道具なぞをそこへ運んで来る。隣の国の内とは言いながら、半蔵にとってはもはや半分、自分の家に帰った思いだ。
 しかし、このもてなしを受けている間にも、半蔵はあれやこれやと儀十郎に尋ねたいと思うことを忘れなかった。彼は中津川大橋の辺から落合へかけての間を騒がしたという群れの中に何人の馬籠の百姓があったろうと想像し、庄屋としての彼が留守中に自分の世話する村からもそういう不幸なものを出したことを恥じた。


「もう時刻ですから、ほんの茶漬《ちゃづ》けを一ぱい差し上げる。何もありませんが、勝重の家で昼じたくをしていらしってください。」と儀十郎が言い出した。「半蔵さん、あなたが旅に行っていらっしゃる間に、いろいろな事が起こりました。会津の方じゃ戦争が大きくなるし、この辺じゃ百姓仲間が騒ぐし――いや、この辺もだいぶにぎやかでしたわい。」
 儀十郎は笑う声でもなんでも取りつくろったところがない。その無造作で何十年かの街道生活を送り、落合宿の年寄役を勤め、徳川の代に仕上がったものが消えて行くのをながめて来たような人だ。百姓|一揆《いっき》のうわさなぞをするにしても、そう物事を苦にしていない。容易ならぬ時代を思い顔な子息《むすこ》の勝重をかたわらにすわらせて、客と一緒に大きな一閑張《いっかんば》りの卓をかこんだところは、それでも同じ血を分けた親子かと思われるほどだ。
「でも、お父《とっ》さん、千人以上からの百姓が鯨波《とき》の声を揚げて、あの多勢の声が遠く聞こえた時は物すごかったじゃありませんか。わたしはどうなるかと思いましたよ。」
 勝重はそれを半蔵にも聞かせるように言った。
 その時、勝重の母親が昼食の膳《ぜん》をそこへ運んで来た。莢豌豆《さやえんどう》、蕗《ふき》、里芋《さといも》なぞの田舎風《いなかふう》な手料理が旧家のものらしい器《うつわ》に盛られて、半蔵らの前に並んだ。勝重の妻はまた、まだ娘のような手つきで、茄子《なす》の芥子《からし》あえなぞをそのあとから運んで来る。胡瓜《きゅうり》の新漬けも出る。
「せっかく、お師匠さまに寄っていただいても、なんにもございませんよ。」と勝重の母親は半蔵に言って、供の男の方をも見て、
「平兵衛さ、お前もここで御相伴《ごしょうばん》しよや。」
「いえ、おれは台所の方へ行って頂《いただ》く。」
 と言いながら、平兵衛は自分の前に置かれた膳を持って、台所の方へと引きさがった。
 勝重は若々しい目つきをして、半蔵と父親の顔を見比べ、箸《はし》を取りあげながらも、話した。「この尾州領に一揆が起こったなんて今までわたしは聞いたこともない。」
「それがさ。半蔵さんも御承知のとおりに、尾州藩じゃよく尽くしましたからね。」と儀十郎が言って見せる。
「お父《とっ》さん――問屋や名主を目の敵《かたき》にして、一揆の起こるということがあるんでしょうか。」と勝重が言った。
「そりゃ、あるさ。他の土地へ行ってごらん、ずいぶんいろいろな問屋がある。百姓は草履《ぞうり》を脱がなければそこの家の前を通れなかったような問屋もある。草履も脱がないようなやつは、お目ざわりだ、そういうことを言ったものだ。いばったものさね。ところが、お前、この御一新だろう。世の中が変わるとすぐ打ちこわしに出かけて行った百姓仲間があると言うぜ。なんでも平常《ふだん》出入りの百姓が一番先に立って、闇《やみ》の晩に風呂敷《ふろしき》で顔を包んで行って、問屋の家の戸障子と言わず、押入れと言わず、手当たり次第に破り散らして、庭の植木まで根こぎにしたとかいう話を聞いたこともあるよ。この地方にはそれほど百姓仲間から目の敵《かたき》にされるようなものはない。現在宿役人を勤めてるものは、大概この地方に人望のある旧家ばかりだからね。」
 儀十郎は無造作に笑って、半蔵の方を見ながらさらに言葉をつづけた。
「しかし、今度の一揆じゃ、中津川辺の大店《おおだな》の中には多少用心した家もあるようです。そりゃ、こんな騒ぎをおっぱじめた百姓仲間ばかりとがめられません。大きい町人の中には、内々《ないない》米の買い占めをやってるものがあるなんて、そんな評判も立ちましたからね。まあ、この一揆を掘って見たら、いろいろなものが出て来ましょう。何から何まで新規まき直しで、こんな財政上の御改革が過激なためかと言えば、そうばかりも言えない。世の中の変わり目には、人の心も動揺しましょうからね。なにしろ、あなた、千人以上からの百姓の集まりでしょう。みんな気が立っ
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