政治を執って来たものを、われわれはにわかに逆賊とは見なしたくない。まして慶喜はこれまで政権を執ったばかりでなく、過去三世紀にもわたってこの国の平和を維持した徳川の旧《ふる》い事業に対しても感謝されていい人だ。彼が江戸の方へにげ帰ったあとで、彼に謁見《えっけん》した外国人もあるが、いずれも彼の温雅であって貴人の体を失わないことをほめないものはない。今こそ徳川は不幸にして浮き雲におおわれているが、全く滅亡する事は惜しい、そう多くのものは言っている。しかし、彼慶喜がこの国にあっては、もとより凡庸の人でないことは自分も知っている。彼が自分ら外国人に対してもつねに親友の情を失わないのは不思議もない。」
 フランス公使ロセスが徳川に寄せる同情は、言葉のはしにも隠せないものがあった。そこには随行員以外に、だれも公使のつかうフランス語を解するものはいなかった。それでもカションは周囲を見回してその狭い廊下を行きつ戻《もど》りつしながら、公使のそばを立ち去りかねていた。

       五

 三国公使参内のうわさは早くも京都市民の間に伝わった。往昔、朝廷では玄蕃《げんば》の官を置き、鴻臚館《こうろかん》を建てて、遠い人を迎えたためしもある。今度の使節の上京はそれとは全く別の場合で、異国人のために建春門を開き、万国公法をもって御交際があろうというのだから、日本紀元二千五百余年来、未曾有《みぞう》の珍事であるには相違なかった。
 しかし、京都側として責任のある位置に立つものは、ただそれだけでは済まされない。正直一徹で聞こえた大原三位重徳《おおはらさんみしげとみ》なぞは、一度は恐縮し、一度は赤面した。先年の勅使が関東|下向《げこう》は勅諚《ちょくじょう》もあるにはあったが、もっぱら鎖攘《さじょう》(鎖港攘夷の略)の国是《こくぜ》であったからで。王政一新の前日までは、鎖攘を唱えるものは忠誠とせられ、開港を唱えるものは奸悪《かんあく》とせられた。しかるに手の裏をかえすように、その方向を一変したとなると、改革以前までの鎖攘を唱えたのは畢竟《ひっきょう》外国人を憎むのではなくして、徳川氏を顛覆《てんぷく》するためであったとしか解されない。もとより朝廷において、そんな卑劣な叡慮《えいりょ》はあらせられるはずもないが、世間からながめた時は徳川氏をつぶす手段と思うであろう。御一新となってまだ間もない。かくもにわかに方向を転換することは、朝廷も徳川氏に対して御遠慮あるべきはずである。先帝にもこの事にはすこぶる叡慮を悩ませられたと言って、大原卿はその心配をひそかに松平春嶽にもらしたという。

 当時、京都は兵乱のあとを承《う》けて、殺気もまだ全く消えうせない。ことに、神戸|堺《さかい》の暴動、およびその処刑の始末等はひどく攘夷の党派に影響を及ぼし、人心の激昂《げきこう》もはなはだしい。この際、公使謁見の接待を命ぜられた新政府の人たち、小松|帯刀《たてわき》、木戸準一郎、後藤象次郎《ごとうしょうじろう》、伊藤俊介、それに京都旅館の準備と接待とを命ぜられた中井|弘蔵《こうぞう》なぞは、どんな手配りをしてもその勤めを果たさねばならない。京都にある三大寺院は公使らの旅館にあてるために準備された。三藩の兵隊はまた、それぞれの寺院に分かれて宿泊する公使らを衛《まも》ることになった。尾州兵は智恩院《ちおんいん》。薩州兵は相国寺《しょうこくじ》。加州兵は南禅寺《なんぜんじ》。


 外国使臣一行の異様な行装《こうそう》を見ようとして遠近から集まって来た老若男女の群れは京都の町々を埋《うず》めた。三国公使とも前後して伏見街道から無事に京都の旅館に到着した翌々日だ。その前日は雨で、一行はいずれも騎馬、あるいは駕籠《かご》を用い、中井、伊藤らの官吏に伴われながら、新政府の大官貴顕と聞こえた三条、岩倉、鍋島《なべしま》、毛利、東久世の諸邸を回礼したと伝えらるることすら、大変な評判になっているころだ。
 いよいよその日の午後には、新帝も南殿に出御《しゅつぎょ》して各国代表者の御挨拶《ごあいさつ》を受けさせられる、公使らの随行員にまで謁見を許される、その間には楽人の奏楽まである、このうわさが人の口から口へと伝わった。新政府の処置挙動に不満を抱《いだ》くものはもとより少なくない。こんな外国の侵入者がわが禁闕《きんけつ》の下《もと》に至るのは許しがたいことだとして、攘夷の決行されないのを慷慨《こうがい》するものもある。官吏ともあろうものが夷狄《いてき》の輩《ともがら》を引いて皇帝陛下の謁見を許すごときは、そもそも国体を汚すの罪人だというような言葉を書きつらね、係りの官吏および外国公使を誅戮《ちゅうりく》すべしなどとした壁書も見いだされる。腕をまくるもの、歯ぎしりをかむものは、激しい好奇心に燃えている
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