、人情、物産なぞを知るに努めたかは、ケンペルのようなオランダ人のありのままな旅行記が何よりの証拠だ。彼の目に映った日本人は義烈で勇猛な性質がある。多くの人に知られないような神仏のごときをもなおかつ軽《かろ》んずることをしない。しかも一度それを信奉した上は、頑《がん》としてその誓いを変えないほどの高慢さだ。もしそれこの高慢と闘争を好むの性癖を除いたら、すなわち温和|怜悧《れいり》で、好奇心に富んでいることもその比を見ない。日本人は衷心においては外国との通商交易を望み、中にもヨーロッパの学術工芸を習得したいと欲しているが、ただ自分らを商賈《しょうこ》に過ぎないとし、最下等の人民として軽んじているのである。おそらくこれは嫉妬《しっと》と不信とに基づくことであろうから、この際|友誼《ゆうぎ》を結んで百事を聞き知ろうとするには、まずその心を収攬《しゅうらん》するがいい。貨幣の類《たぐい》などは惜しまず握らせ、この国のものを欺《だま》し、この国のものを尊重し、それと親通するのが第一である。ケンペルはそう考えて、自分に接近する人たちに薬剤の事や星学なぞを教授し、かつ洋酒を与え、ようやくのことで日本人の心を籠絡《ろうらく》して、それからはすこぶる自由に自分の望むところを尋ね、かつて世界の秘密とされたこの島国に隠された事をも遺憾なく知ることができたと言ってある。
遠く極東へとこころざして来た初期のオランダ人の旅について、ケンペルはまた種々《さまざま》な話を書き残した。使節フウテンハイムの一行が最初に江戸へ到着した時のことだ。彼らは時の五代将軍|綱吉《つなよし》が住むという大城に導かれた。百人番というところがあって、そこが将軍居城の護衛兵の大屯所《だいとんしょ》になっていた。一行は命令によってその番所で待った。城内の大官会議が終わり次第、一行の将軍|謁見《えっけん》が行なわれるはずであった。二人《ふたり》の侍が彼ら異国の珍客に煙草《たばこ》や茶をすすめて慇懃《いんぎん》に接待し、やがて他の諸役人も来て一行に挨拶《あいさつ》した。そこに待つこと三十分ばかり。その間に、老中《ろうじゅう》初め諸大官が、あるいは徒歩、あるいは乗り物の輿《こし》で、次第に城内へと集まって来た。彼らはそこから二つの門と一つの方形な広場を通って奥へと導かれる。第一の門からそこまでは数個の階段がある。門と大玄関との間ははなはだ狭くてほんのわずかの間隔に過ぎなかったが、護衛の侍を初め多くの諸役人が群れ集まって来ていた。それから一行は進んで二つの階段をのぼり、まずはいったのは広い一間で、それから右側の一室にはいった。そこは将軍に向かっても、また老中に向かってもすべて対面を求めるものの許可を得るまで待ち合わす所である。そこはなかなか大きな室《へや》であるが、周囲の襖《ふすま》をしめきるとすこぶる薄暗い。わずかに隣室の上部の欄間《らんま》から光線がもれ入るに過ぎない。しかし国風《くにぶり》によって施された装飾の美は目もさめるばかりで、壁と言わず、襖と言わず、構造は実に念の入ったものであったという。待つこと一時間以上、その間に将軍は謁見室に出御《しゅつぎょ》がある。一行のうちの使節のみが導かれて御前に出る時、一同大声で、
「オランダ、カピタン。」
と呼んだ。これは将軍に近づいて使節に礼をさせるための合図である。将軍が国内の他の最も強大な諸侯に対する場合でも、その態度はすこぶる尊大である。すべて諸侯の謁見に際しても、その名が一度呼び上げられると、諸侯は無言ですわったまま手と膝《ひざ》とで将軍の前ににじりより、前額を床にすりつけて拝礼した上で、また同一の態度で後ろへ這《は》いさがるのである。そこでオランダの使節も同じように、将軍へ献上する進物を前に置き、将軍に対して坐《ざ》し、額《ひたい》を床につけ、一言を発することもなく、あたかも蟹《かに》のようにそのまま後ろへ引きさがった。
オランダ人がこの強大な君主に対する謁見はこんな卑下したものであった。これほど身を屈して、礼儀を失うまいとしたのは言うまでもなく、この国との通商を求めるためであったからで。随行のケンペルも許されて室を参観することができた時に、彼はすばやく床に敷かれている畳の数を百と数え、その畳がすべて皆同一の大きさであることをみて取り、襖《ふすま》、窓なぞも細かにそれを視察した。室の一面は小さな庭で、それと反対な側は他の二室に連なり、二室共に同一の庭に向かって開くようになっているが、その二室の小さな方に将軍の御座がある。彼はその目で、将軍の風貌《ふうぼう》をも熟視しようとしたが、それははなはだ難《かた》いことであった。というのは、光線が充分に将軍の御座の所まで達しないのと、謁見の時間が短くて、かつ謁見者があまりに礼を低くする
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