民の上に働きかけた。ハリスは米国提督のペリイとも違い、力に訴えてもこの国を開かせようとした人ではなかった。相応に日本を知り、日本の国情というものをも認め、異国人ながらに信頼すべき人物と思われたのもハリスであった。国を開くか開かないかの早いころに来てこのハリスの教えて置いたことは、先入主となって日本人の胸の底に潜むようになったのである。あだかも、心の柔らかく感じやすい年ごろに受け入れた感化の人の一生に深い影響を及ぼすように。
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     第二章

       一

 商船十数|艘《そう》、軍艦数隻、それらの外国船舶が兵庫《ひょうご》の港の方に集まって来たころである。横浜からも、長崎からも、函館《はこだて》からも、または上海《シャンハイ》方面からも。数隻の外国軍艦のうちには、英艦がその半ばを占め、仏艦がそれに次ぎ、米艦は割合にすくなかった。港にある船はもとより何百艘で、一本マスト、二本マストの帆前船、または五大力《ごだいりき》の大船から、達磨船《だるまぶね》、土船《つちぶね》、猪牙船《ちょきぶね》なぞの小さなものに至るまで、あるいは動き、あるいは碇泊《ていはく》していた。その活気を帯びた港の空をゆるがすばかりにして、遠く海上へも響き渡れとばかり、沖合いの外国軍艦からは二十一発の祝砲を放った。
 慶応三年十二月七日のことで、陸上にはまだ兵庫開港の準備も充分には整わない。英米仏などの諸外国は兵庫開港が条約期日に違《たご》うのではないかと疑い、兵力を示してもその履行を促そうと協議し、開港準備の様子をうかがっていた際である。外人居留地はまだでき上がらないうちに、開港の期日が来てしまったのだ。しかし、神戸《こうべ》村の東の寂しく荒れはてた海浜に新しい運上所《うんじょうしょ》が建てられ、それが和洋折衷の建築であり、ガラス板でもって張った窓々が日をうけて反射するたびに輝きを放つ「びいどろの家」であるというだけでも、土地の人々をよろこばせた。三か所の波止場《はとば》も設けられ、三棟《みむね》ばかりの倉庫も落成した。内外の商人はまだ来て取り引きを始めるまでには至らなかったが、なんとなく人気は引き立った。各国領事がその仮住居《かりずまい》に掲げた国旗までが新しい港の前途を祝福するかに見えたのである。
 翌慶応四年の正月が来て見ると、長い鎖国から解かれる日のようやくやって来たころは、やがて新旧の激しい争いがさまざまな形をとって、洪水《こうずい》のようにこの国にあふれて来たころであった。江戸方面には薩摩方《さつまがた》に呼応する相良惣三《さがらそうぞう》一派の浪士隊が入り込んで、放火に、掠奪《りゃくだつ》に、あらゆる手段を用いて市街の攪乱《こうらん》を企てたとのうわさも伝わり、その挑戦的《ちょうせんてき》な態度が徳川方を激昂《げきこう》させて東西雄藩の正面衝突が京都よりほど遠からぬ淀川《よどがわ》付近の地点に起こったとのうわさも伝わった。四日にわたる激戦の結果は会津《あいづ》方の敗退に終わったともいう。このことは早くも兵庫神戸に在留する外人の知るところとなった。ある外国船は急を告げるために兵庫から横浜へ向かい、ある外国船は函館《はこだて》へも長崎へも向かった。
 海から見た陸はこんな時だ。伏見《ふしみ》、鳥羽《とば》の戦いはすでに戦われた。うわさは実にとりどりであった。あるものは日本の御門《みかど》と大君との間に戦争が起こったのであるとし、あるものは江戸の旧政府に対する京都新政府の戦争であるとし、あるものはまた、南軍と北軍とに分かれた強大な諸侯らの戦争であるとした。その時になると、一時さかんに始まりかけた内外商品の取り引きも絶えて、鉄砲弾薬等の売買のみが行なわれる。日本と外国との交際もこの先いかに成り行くやは測りがたかった。
 フランス公使館付きの書記官メルメット・カションはこの容易ならぬ形勢を案じて、横浜からの飛脚船で兵庫の様子を探りに来た。兵庫には居留地の方に新館のできるまで家を借りて仮住居《かりずまい》する同国の領事もいる。カションはその同国人のところへ、江戸方面に在留する外人のほとんど全部がすでに横浜へ引き揚げたという報告を持って来た。英仏米等の外国軍艦からは連合の護衛兵を出して構浜居留地の保護に当たっている、おそらく長崎方面でも同様であろうとの報告をも持って来た。
 新開の兵庫神戸でもこの例にはもれなかった時だ。そこへ仏国領事を見に来たものがある。この地方にできた取締役なるものの一人《ひとり》だ。神戸村の庄屋《しょうや》生島四郎大夫《いくしましろだゆう》と名のる人だ。上京する諸藩の兵士も数多くあって混雑する時であるから、ことに外国の事情に慣れないものが多くて自然行き違いを生ずる懸念《けねん》もあるから、当分神戸辺の街道筋を出歩かな
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