ろによれば、兵端を開いたのは薩摩《さつま》方であったと言うような、そんな言葉の争いがどうあろうと――そんなことはもう彼にはどうでもよかった。先年七月の十七日、長州の大兵が京都を包囲した時、あの時の流れ丸《だま》はしばしば飛んで宮中の内垣《うちがき》にまで達したという。当時、長州兵を敵として迎え撃ったものは、陛下の忠僕をもって任ずる会津武士であった。あの時の責めを一身に引き受けた長州侯ですら寛大な御処置をこうむりながら、慶喜公や会津桑名のみが大逆無道の汚名を負わせられるのは何の事かと言って、木曾福島の武士なぞはそれをくやしがっている。しかし、多くの庄屋、本陣、問屋、医者なぞと同じように、彼のごとく下から見上げるものにとっては、もっと大切なことがあった。
「王政復古は来ているのに、今さら、勤王や佐幕でもないじゃないか。」
寝覚《ねざめ》の蕎麦屋《そばや》であった時の友人の口から聞いて来た言葉が、枕《まくら》の上で彼の胸に浮かんだ。彼は乱れ放題乱れた社会にまた統一の曙光《しょこう》の見えて来たのも、一つは日本の国柄であることを想像し、この古めかしく疲れ果てた街道にも生気のそそぎ入れられる日の来ることを想像した。彼はその想像を古代の方へも馳《は》せ、遠く神武《じんむ》の帝《みかど》の東征にまで持って行って見た。
まだ夜の明けきらないうちから半蔵は本陣の母屋《もや》を出て、薄暗い庭づたいに裏の井戸の方へ行った。水垢離《みずごり》を執り、からだを浄《きよ》め終わって、また母屋へ引き返そうとするころに、あちこちに起こる鶏の声を聞いた。
いよいよ東征軍を迎える最初の日が来た。青く暗い朝の空は次第に底明るく光って来たが、まだ街道の活動ははじまらない。そのうちに、一番早く来て本陣の門をたたいたのは組頭の庄助だ。
「半蔵さま、お早いなし。」
と庄助は言って、その日から向こう三日間、切畑《きりばた》、野火、鉄砲の禁止のお触れの出ていることを近在の百姓たちに告げるため、青の原から杁《いり》の方まで回りに行くところだという。この庄助がその日の村方の準備についていろいろと打ち合わせをした後、半蔵のそばから離れて行ったころには、日ごろ本陣へ出入りの百姓や手伝いの婆《ばあ》さんたちなどが集まって来た。そこの土竈《どがま》の前には古い大釜《おおがま》を取り出すものがある。ここの勝手口の外には枯れ松葉を運ぶものがある。玄関の左右には陣中のような二張りの幕も張り回された。
半蔵はそこへ顔を出した清助をも見て、
「清助さん、総督は八十歳以上の高齢者をお召しになるという話だが、この庭へ砂でも盛って、みんなをすわらせることにするか。」
「そうなさるがいい。」
「今から清助さんに頼んで置くが、わたしも中津川まで岩倉様のお迎えに行くつもりだ。その時は留守を願いますぜ。」
そんな話も出た。
日は次第に高くなった。使いの者が美濃境の新茶屋の方から走って来て、先鋒《せんぽう》の到着はもはや間もないことであろうという。駅長としての半蔵は、問屋九郎兵衛、年寄役伏見屋伊之助、同役|桝田屋《ますだや》小左衛門、同じく梅屋五助などの宿役人を従え、先鋒の一行を馬籠の西の宿はずれまで出迎えた。石屋の坂から町田の辺へかけて、道の両側には人の黒山を築いた。
宮さま、宮さま、お馬の前に
ひらひらするのはなんじゃいな。
とことんやれ、とんやれな。
ありや、朝敵、征伐せよとの
錦《にしき》の御旗《みはた》じゃ、知らなんか。
とことんやれ、とんやれな。
島津轡《しまづぐつわ》の旗を先頭にして、太鼓の音に歩調を合わせながら、西から街道を進んで来る人たちの声だ。こころみに、この新作の軍歌が薩摩隼人《さつまはやと》の群れによって歌われることを想像して見るがいい。慨然として敵に向かうかのような馬のいななきにまじって、この人たちの揚げる蛮音が山国の空に響き渡ることを想像して見るがいい。先年の水戸浪士がおのおの抜き身の鎗《やり》を手にしながら、水を打ったように声まで潜め、ほとんど死に直面するような足取りで同じ街道を踏んで来たのに比べると、これはいちじるしい対照を見せる。これは京都でなく江戸をさして、あの過去三世紀にわたる文明と風俗と流行との中心とも言うべき大都会の空をめがけて、いずれも遠い西海の果てから進出して来た一騎当千の豪傑ぞろいかと見える。江戸ももはや中世的な封建制度の残骸《ざんがい》以外になんらの希望をつなぐべきものを見いだされないために、この人たちをして過去から反《そむ》き去るほどの堅き決意を抱《いだ》かせたのであるか、復古の機運はこの人たちの燃えるような冒険心を刺激して新国家建設の大業に向かわせたのであるか、いずれとも半蔵には言って見ることができなかった。この
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