せよと言い、続いてケンペルはことに歌を歌うよう所望されてそのもとめに応じた。やがて道化は終わった。彼らは上衣を着、一人《ひとり》ずつ簾《す》の前へ行って、彼らの王公に対すると同様の礼でもって別れを告げた。その日、彼らが殿中で喜劇を行なったのは二時間の余であったという。
江戸を去る前、フウテンハイムの一行は暇乞《いとまご》いとして将軍の居城を訪《たず》ねた。その時、百人番で三十分も待たせられたあとで、使節は老中の前に呼び出され、老中は属僚に言い付けて例によって一場の訓示を朗読させた。訓示は主として彼らがシナ人や琉球人《りゅうきゅうじん》の船に妨害を加えてはならないこと、オランダ船にはホルトガル人および切支丹《キリシタン》宗|僧侶《そうりょ》は一人たりとも載せて来てはならないこと、これらの条件を奉じて間違いない限りは商法自由たるべしというのであった。朗読が終わると、使節の前には二つの三宝《さんぽう》が置かれ、その三宝の一つ一つには十重《とかさ》ねずつの素袍《すおう》が載せてあった。将軍から使節への贈り物だ。使節はうやうやしくそれを受け、五つ所紋のついた藍色《あいいろ》な礼服の一つを頭の上に高くあげて深く謝意を表した。それから一同別室へ導かれ、将軍の命で昼飯を下し置かれるとの挨拶《あいさつ》があって、日本風の小さな膳《ぜん》が各人の前に持ち運ばれた。その食事は彼らオランダ人に、この強大な君主の荘厳と驕奢《きょうしゃ》とにふさわしからぬほどの粗食とも思われたという。
暇乞いはそれだけでは済まされなかった。大奥でもまたもや彼らを見たいと言い出される。年のころ三十ばかりになる白と緑の絹の衣裳《いしょう》をつけた接待役の坊主が来て、鄭重《ていちょう》に彼らの姓名年齢を尋ね、やがてその人の案内で一同導かれて行ったところは例の奥まった簾《す》の前だ。まず日本風に敬礼したところ、簾に近づいてヨーロッパ風にせよとの御意である。それに従うと、今度は歌を歌えとの命である。ケンペルは彼がかつてことに尊重した一貴女のためにものした一つをえらんで歌った。それは彼女の美とその徳とをたたえて、この世のいかなる財宝も、その貴《とうと》さには到底比べられないとの意を詠じたものであった。将軍がその意を訳して聞かせよと彼に命ぜらるるから、そこで彼はその歌をえらんだはほかでもないと言って、この国の君主、皇族、および全日本朝廷の健康と幸福と繁栄とを保全せらるることを祈る外臣が誠実の心をいたすにほかならないと申し上げた。以前の謁見《えっけん》の時と同じように、彼らは上衣を取って室内を歩めと命ぜられ、使節も今度はそれを行なった。続いて彼らの友人、両親、または妻にめぐりあい、または別れを告げる態《さま》、互いにののしり合う態、友人と論争し、やがてまた和解する態なぞを御覧に入れた。それが終わると、ケンペルのそばに近づいて来て健康の診断を求め、試みに彼の意見を聞きたいという一人《ひとり》の剃髪《ていはつ》の人があった。脈を取って検《しら》べて見ると、疑いもない健康者だ。しかし彼はその人の顔のようすや鼻の赤いところから推して、好酒家と知ったから、あまり飲み過ぎないようにと忠告した。将軍はじめ一同がそれを聞き知った時は、あたりにさかんな笑い声が起こった。
これらは皆、ケンペルがその旅行記にくわしく書き残したことである。時はあだかも徳川将軍家の勢いが実に一代を圧したころに当たる。当時のオランダ使節の一行が商業の自由を許さるるの恵みを感謝したのは、日本国の皇帝の面前においてであるとのみ思っていたとか。彼らはその江戸城の大奥に導かれて、皇帝の居住する宮殿の中に身を置き得たと信じ、彼らのそばに来て一々その姓名、年齢、その他のことを尋ねた数人の頭を円《まる》めた坊主を皇帝の侍医または接待役と信じ、彼らを歓迎する旨《むね》を述べてくれた老中牧野備後こそかつては皇帝の師傅《しふ》であり現に最も皇帝の信任を受けつつある人と信じたという。
三
百六十年ほど後に黒船の載せて来たアメリカ使節ペリイはこのオランダ人の態度を捨てた。これまで許されなかった通商の自由を求めるためには、いかなる役割をも忍ぼうとする道化役者ではもとよりなかった。彼はオランダ人のような仮面を脱いで、全く対等の位置に立ち、一国を代表する使節としての重い使命を果たしに来た。
しかし先着のオランダ人が極東に探り求めたものは、あとから来る人たちのためにすくなからぬ手引きとなったことを忘れてはならない。寛永《かんえい》十年以来、日本国の一切の船は海の外に出ることを禁じられ、五百石以上の大船を造ることも禁じられてからこのかた、この国のものが海外の事情に暗かったように、異国のものもまた極東の事情に暗いものばかりだと思ったら、
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