子である。兄の公子がその若さであるとすると、弟の公子の年ごろは推して知るべしである。いかに父の岩倉公が新政府の柱石とも言うべき公卿《くげ》であり、現に新帝の信任を受けつつある人とは言いながら、その子息らはまだおさなかった。沿道諸藩の思惑《おもわく》もどうあろう。それに正副の総督を護《まも》って来る人たちがいずれ一騎当千の豪傑ぞろいであるとしても、おそらく中部地方の事情に暗い。これは捨て置くべき場合でないと考えたあの友人のあわただしい帰国が、その辺の消息を語っている。半蔵は割合に年齢《とし》の近い中津川の香蔵を通して、あの年上の友人の国をさして急いで来た心持ちを確かめた。
 そればかりでない、帰国後の景蔵は香蔵と力をあわせ、東濃地方にある平田諸門人を語らい、来たるべき東山道軍のためによき嚮導者《きょうどうしゃ》たることを期している。それを知った時は半蔵の胸もおどった。できることなら彼も二人の友人と行動を共にしたかった。でも、木曾福島《きそふくしま》の代官山村氏の支配の下にある馬籠の庄屋に、それほどの自由が許されるかどうかは、すこぶる疑問であった。
 東山道総督執事の名で、この進軍のため沿道地方に働く人民を励まし、またその応援を求める意味の布告が発せられたのは、すでに正月のころからである。半蔵は幾たびか木曾福島の方から回って来るお触れ状を読んだ。それは木曾谷中を支配する地方《じかた》御役所よりの通知で、尾張藩《おわりはん》からの厳命に余儀なくこんな通知を送るとの苦《にが》い心持ちが言外に含まれていないでもない。名古屋方と木曾福島の山村氏が配下との反目はそんなお触れ状のはじにも隠れた鋒先《ほこさき》をあらわしていた。ともあれ、半蔵はそれを読んで、多人数入り込みの場合を予想し、人夫の用意から道橋の修繕までを心がける必要があった。各宿とも旅客用の夜具|蒲団《ふとん》、膳椀《ぜんわん》の類《たぐい》を取り調べ、至急その数を書き上ぐべきよしの回状をも手にした。皇軍通行のためには、多数の松明《たいまつ》の用意もなくてはならない。木曾谷は特に森林地帯とあって、各村ともその割り付けに応ずべきよしの通知もやって来た。
 半蔵は会所の方へ隣家の伊之助《いのすけ》その他の宿役人を集めて相談する前に、まず自分の家へ通《かよ》って来る清助と二人でその通知を読んで見た。各村とも三千|把《ぱ》から三千五百把ずつの松明を用意せよとある。これは馬籠《まごめ》宿の囲いうちにのみかぎらない。上松《あげまつ》、須原《すはら》、野尻《のじり》、三留野《みどの》、妻籠《つまご》の五宿も同様であって、中には三留野宿の囲いうちにある柿其村《かきそれむら》のように山深いところでは、一村で松明七千把の仕出し方を申し付けられたところもある。
 清助は言った。
「半蔵さま、御覧なさい。檜木《ひのき》類の枝を伐採する場所と、元木《もとぎ》の数をとりしらべて、至急書面で届け出ろとありますよ。つまり、木曾山は尾州の領分だから、松明《たいまつ》の材料は藩から出るという意味なんですね。へえ、なかなかこまかいことまで言ってよこしましたぞ。元木の痛みにならないように、役人どもにおいてはせいぜい伐採を注意せよとありますよ。いずれ御材木方も出張して、お取り締まりもある、御陣屋|最寄《もよ》りの場所はそこへ松明を取り集めて置いて、入り用の節に渡すはずであるから、その辺のことを心得て不締まりのないようにいたせ、ともありますよ。」
 どうして、これらの労苦の負担は木曾地方の人民にとって決して軽くない。その通知によれば、馬籠村三千把、山口村三千五百把、湯舟沢村三千五百把とあって、半蔵が世話すべき宿内に割り当てられた分だけでも、松明《たいまつ》一万把の仕出し方を申し付けられたことになる。しかし彼はどんなにでもして、村民を励まし、奮ってこの割り付けに応じさせようとしていた。
 それほど半蔵は王師を迎える希望に燃えていた。どれほどの忍耐を重ねたあとで、彼も馬籠の宿場に働く人たちと共に、この新しい春にめぐりあうことができたろう。その心から、たとい中津川の友人らと行動を共にし得ないまでも、一庄屋としての彼は自分の力にできるだけのことをして、来たるべき東山道軍を助けようとしていた。かねて新時代の来るのを待ち切れないように、あの大和《やまと》五条にも、生野《いくの》にも、筑波山《つくばさん》にも、あるいは長防二州にも、これまで各地に烽起《ほうき》しつつあった討幕運動は――実に、こんな熾仁親王《たるひとしんのう》を大総督にする東征軍の進発にまで大きく発展して来た。

 地方の人民にあてて東山道総督執事が発した布告は、ひとりその応援を求める意味のものにとどまらない。どんな社会の変革でも人民の支持なしに成し就《と》げられたためしの
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