質《かたぎ》の久兵衛とも違って、その養子はまた染め物屋一方という顔つきの人だ。手も濃い藍《あい》の色に染まっている。久兵衛はその人に言い付けて、帳箪笥《ちょうだんす》の横手にある戸棚《とだな》から紙包みを取り出させた。その上に、「御誂《おあつらえ》、伊勢久」としてあるのを縫助の前に置いた。
「では、恐れ入りますが、これを中津川の浅見景蔵さんへ届けていただきたい。道中のお荷物になって、お邪魔でしょうけれど。」と言って、久兵衛は養子の方を顧みて、「ちょっとお客様にお目にかけるか。」
「よい色に上がりましたよ。」と養子も紙包みを解きながら言った。
「これはよい黒だ。」と正香が言う。
「京の水でなければこの色は出ません。江戸紫と申して、江戸の水は紫に合いますし、京の水はまた紅《べに》によく合います。京紅と申すくらいです。この羽織地《はおりじ》の黒も下染めには紅が使ってございます。」
 久兵衛は久兵衛らしいことを言った。


「確かに。」
 その言葉を残して置いて、縫助は久兵衛に別れを告げた。預かった染め物の風呂敷包《ふろしきづつ》みをも小脇《こわき》にかかえながら、やがて彼は紺地に白く伊勢屋と染めぬいてある暖簾《のれん》をくぐって出た。
「縫助さん、わたしもそこまで一緒に行こう。」
 と言いながら正香は縫助のあとを追って行った。
 外国人滞在中は、乗輿《じょうよ》、および乗馬のまま九門の通行を許すというだけでも、今までには聞かなかったことである。一事が実に万事であった。一切の破格なことがかもし出す空気は、この山の上の古い都に活《い》き返るような生気をそそぎ入れつつあった。
「とにかく、世界の人を相手にするような時世にはなって来ましたね。」
 伊那南条村の片田舎《かたいなか》から出て来て見た縫助にこの述懐があるばかりでなく、王政復古を迎えた日は、やがて万国交際の始まった日であったとは、正香にとっても決しておろそかには考えられないことであった。
 縫助は三条の方角をさして、正香と一緒に麩屋町《ふやまち》から寺町の通りに出ながら、
「暮田さん、今度わたしは京都に出て来て見て、そう思います。なんと言っても今のところじゃ藩が中心です。藩というものをそれぞれ背負《しょ》って立ってる人たちは、思うことがやれる。ところが、われわれ平田門人はいずれも医者か、庄屋《しょうや》か、本陣|問屋《といや》か、でなければ百姓町人でしょう。」
「そう言えば、そうさ。平田門人の大部分は。」
「でしょう。みんな縁の下の力持ちです。それでも、どうかして新政府を護《も》り立てようとしています。それを思うと、いたいたしい。」
「しかし、縫助さん、君は平田門人が下積みになってるものばかりのように言うが、士分のものだってなくはない。」
「そうでしょうか。」
「見たまえ、こないだわたしは鉄胤《かねたね》先生のところで、天保《てんぽう》時代の古い門人帳を見せてもらったが、あの時分の篤胤|直門《じきもん》は五百四十九人ぐらいで、その中で七十三人が士分のものさ。全国で十七藩ぐらいから、そういう人たちを出してるよ。最も多い藩が十四人、最も少ない藩が一人《ひとり》というふうにね。鹿児島《かごしま》、津和野《つわの》、高知、名古屋、金沢、秋田、それに仙台《せんだい》――数えて来ると、同門の藩士もふえて来たね。山吹《やまぶき》、苗木《なえぎ》なぞは言うまでもなしさ。あの時分の十七藩が、今じゃ三十五藩ぐらいになってやしないか。そこだよ、君――各藩は今、大きな問題につき当たって、だれもが右往左往してる。勤王か、佐幕かだ。こういう時に、平田篤胤没後の門人が諸藩の中にもあると考えて見たまえ。あの越前藩の中根雪江が、春嶽公と同藩の人たちとの間に立って、勤王を鼓吹してるなぞは、そのよい例じゃないかと思うね。それから、越前には君、橘曙覧《たちばなあけみ》のような同門の歌人もあるよ――もっとも、この人は士分かどうか、その辺はよく知らないがね。」
「とにかく、暮田さん。同門の人たちが急にふえて来たことは、驚くようですね。他の土地は知りませんが、あなたが伊那に来て隠れていた時分、一年の入門者は二十人くらいのものでしたろう。それでもあの谷じゃ、七人か九人から急に二十人の入門者ができたと言って、みんな肩身が広くなったように思ったものです。どうでしょう、昨年の冬からこの春へかけて、一息に百人という勢いですぜ。」
「この調子で行ったら、全国の御同門は今に三千人を越えるだろうね。そりゃ君、士分のものばかりじゃない。堂上の公卿《くげ》衆にだって、三十人近い御同門のかたができて来たからね。こんなに故人の平田篤胤を師と頼んで来る人のあるのは、どういう理由《わけ》かと尋ねて見るがいい。あの篤胤先生には『霊《たま》の真柱《まはしら》
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