わりかけて行きつつあった。
 江戸の方にあった道中奉行所の代わりに京都|駅逓司《えきていし》の設置、定助郷《じょうすけごう》その他|種々《さまざま》な助郷名目の廃止なぞは皆この消息を語っていた。従来、諸公役の通行と普通旅人の通行には荷物の貫目にまで非常な差別のあったものであるが、それらの弊習も改められ、勅使以下の通行に特別の扱いすることも一切廃止され、公領私領の差別なくすべて助郷に編成されることになった。諸藩の旅行者たりとも皆|相対《あいたい》賃銭を払って人馬を使用すべきこと、助郷村民の苦痛とする刎銭《はねせん》なるものも廃されて、賃銭はすべて一様に割り渡すべきこと、それには宿駅常備の御伝馬とそれを補助する助郷人馬との間になんらの差別を設けないこと――これらの駅逓司の方針は、いずれも沿道付近に住む百姓と宿場の町人ないし伝馬役との課役を平等にするためでないものはなかった。多年の問題なる助郷農民の解放は、すくなくもその時に第一歩を踏み出したのである。


 しかし、この宿場の改革には馬籠あたりでもぶつぶつ言い出すものがあった。その声は桝田屋《ますだや》および出店《でみせ》をはじめ、蓬莱屋《ほうらいや》、梅屋、その他の分家に当たる馬籠町内の旦那衆の中から出、二十五軒ある旧《ふる》い御伝馬役の中からも出た。もともと町内の旦那衆とても根は百姓の出であって、最初は梅屋の人足宿、桝田屋の旅籠屋《はたごや》というふうに、追い追いと転業するものができ、身分としては卑《ひく》い町人に甘んじたものであるが、いつのまにかこれらの人たちが百姓の上になった。かつて西の領地よりする参覲交代《さんきんこうたい》の諸大名がまださかんにこの街道を往来したころ、木曾《きそ》寄せの人足だけでは手が足りないと言われるごとに、伊那《いな》の谷に住む百姓三十一か村、後には百十九か村のものが木曾への通路にあたる風越山《かざこしやま》の山道を越しては助郷の勤めに通《かよ》って来たが、彼ら百姓のこの労役に苦しみつつあった時は、むしろ宿内の町人が手に唾《つば》をして各自の身代を築き上げた時であった。中には江戸に時めくお役人に取り入り、そのお声がかりから尾州侯の御用達《ごようたし》を勤めるほどのものも出て来た。どうして、これらの人たちが最下等の人民として農以下に賤《いや》しめられるほどの身分に満足するはずもない。頭を押え
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