脚絆草鞋《きゃはんわらじ》ばきで、左の肩の上の錦《にしき》の小片《こぎれ》に官軍のしるしを見せたところは、実地を踏んで来た人の身軽ないでたちである。この人が荒町《あらまち》の禰宜《ねぎ》だ。腰にした長い刀のさしかたまで、めっきり身について来た松下千里だ。
千里は組頭庄助その他の出迎えのものに伴われて、まず本陣へ無事帰村の挨拶《あいさつ》に寄り、はじめて吉左衛門の病気を知ったと言いながら会所へも挨拶に立ち寄ったのであった。
「ヨウ、禰宜さま。」
その声は、問屋場の方にいる栄吉らからも、会所を出たりはいったりする小使いらの間からも起こった。軍帽もぬぎ、草鞋の紐《ひも》もといて、しばらく会所に休息の時を送って行く千里の周囲には、会津戦争の話を聞こうとする人々が集まった。その時まで店座敷に話し込んでいた寿平次や得右衛門までがまたそこへすわり直したくらいだ。
さすがに千里の話はくわしい。この禰宜が越後口より進んだ一隊に付属する兵粮方《ひょうろうかた》の一人として、はじめて若松城外の地を踏んだのは九月十四日とのことである。十九日未明には、もはや会津方の三人の使者が先に官軍に降《くだ》った米沢藩《よねざわはん》を通して開城降伏の意を伝えに来たとの風聞があった。それらの使者がいずれも深い笠《かさ》をかぶり、帯刀も捨て、自縛して官軍本営の簷下《のきした》に立たせられた姿は実にかわいそうであったとか。その時になると、白河口《しらかわぐち》よりするもの、米沢口よりするもの、保成口《ぼなりぐち》、越後口よりするもの、官軍参謀の集まって来たものも多く、評議もまちまちで、会津方が降伏の真偽も測りかねるとのうわさであった。翌二十日にはさらに会津藩の鈴木|為輔《ためすけ》、川村三助の両人が重役の書面を携えて国情を申し出るために、通路も絶えたような城中から進んで来た。彼千里はその二人の使者が兵卒の姿に身を変え、背中には大根を担《にな》って、官軍の本営に近づいて来たのを目撃したという。味方も敵も最前線にあるものはまだその事を知らない。その日は諸手《しょて》の持ち場持ち場からしきりに城中を砲撃し、城中からも平日よりははげしく応戦した。二十二日が来た。いよいよ諸口の官兵に砲撃中止の命令の伝えられる時が来た。朝の八時ごろには約束のように追手門の外へ「降参」としるした大旗の建つのを望んだともいう。
「い
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