の三港を開かせたばかりでなく、さらに兵庫《ひょうご》の港と、全国商業の中心地とも言うべき大坂の都市をも開かせることになった。実に兵庫の開港はアメリカ使節ペリイがこの国に渡来した当時からの懸案であり、徳川幕府が将軍の辞職を賭《か》けてまで朝廷と争って来た問題である。こんな黒船が海の外から乗せて来たのは、いったいどんな人たちか。ここですこしそれらの人たちのことを振り返って見る必要がある。
二
紅毛《こうもう》とも言われ、毛唐人《けとうじん》とも言われた彼らは、この日本の島国に対してそう無知なものばかりではなかった。ケンペルの旅行記をあけて見たほどのものは、すでに十七世紀の末の昔にこの国に渡って来て、医学と自然科学との知識をもっていて、当時における日本の自然と社会とを観察したオランダ人のあることを知る。この蘭医《らんい》は二か年ほど日本に滞在し、オランダ使節フウテンハイムの一行に随《したが》って長崎から江戸へ往復したこともある人で、小倉《こくら》、兵庫、大坂、京都、それから江戸なぞのそれまでヨーロッパにもよく知られていなかった内地の事情をあとから来るもののために書き残した。このオランダ人が兵庫の港というものを早く紹介した。その書き残したものによると、兵庫は摂津《せっつ》の国にあって、明石《あかし》から五里である、この港は南方に広い砂の堤防がある、須磨《すま》の山から東方に当たって海上に突き出している、これは自然のものではなくて平家《へいけ》一門の首領が良港を作ろうとして造ったものだと言ってある。おそらくこの工事に費やされたる労力および費用は莫大《ばくだい》なものであろう、工事中海波のため二回までも破壊され、日本の一勇士が身を海中に投じて海神の怒りをしずめたために、かろうじてこれを竣工《しゅんこう》することができたとの伝説も残っていると言ってある。この兵庫は下《しも》の関《せき》から大坂に至る間の最後の良港であって、使節フウテンハイムの一行が到着した時は三百|艘《そう》以上の船が碇泊《ていはく》しているのを見た、兵庫市には城はない、その大きさは長崎ぐらいはあろう、海浜の人家は茅屋《あばらや》のみであるが、奥の方に当たってやや大きなのがあるとも言ってある。
こんな先着の案内者がある。しかし、それらの初期の渡来者がいかに身を屈して、この国の政治、宗教、風俗
前へ
次へ
全210ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング