ところは、本陣の玄関の前に広い板敷きとなっている式台の片すみであった。表庭の早い椿《つばき》の蕾《つぼみ》もほころびかけているころで、そのあたりにつながれている立派な青毛の馬が見える。総督へ献上の駒《こま》とあって、伝吉、彦助と名乗る両名の厩仲間《うまやちゅうげん》のものがお口取りに選ばれ、福島からお供を仰せつけられて来たとのこと。試みに吉左衛門はその駒の年齢を尋ねたら、伝吉らは六歳と答えていた。
「お父《とっ》さん。」
 と声をかけて、奥の方へ挨拶《あいさつ》に出ることを勧めに来たのは半蔵だ。
「いや、おれはここで失礼するよ。」
 と吉左衛門は言って、その駒の雄々《おお》しい鬣《たてがみ》も、大きな目も、取りつく蝿《はえ》をうるさそうにする尻尾《しっぽ》までも、すべてこの世の見納めかとばかり、なおもよく見ようとしていた。
 だれもがそのお馬をほめた。だれもがまた、中津川の方に山村氏の御隠居を待ち受けるものの何であるかを見定めることもできなかった。やがて奥から玄関先へ来て、供の衆を呼ぶ清助の大きな声もする。それは乗り物を玄関先につけよとの掛け声である。早、お立ちの合図である。その時、吉左衛門は式台の片すみのところに、その板敷きの上にかしこまっていて、父子代々奉仕して来た旧《ふる》い主人公のつつがない顔を見ることができた。
「旦那様。吉左衛門でございます。お馬拝見に出ましてございます。」
「おゝ、その方も達者《たっしゃ》か。」
 御隠居が彼の方を顧みての挨拶だ。
 吉左衛門は目にいっぱい涙をためながら、長いことそこに立ち尽くした。御隠居を乗せた駕籠を見送り、門の外へ引き出されて行くお馬を見送り、中津川行きの供の衆を見送った。半蔵がその一行を家の外まで送りに出て、やがて引き返して来たころになっても、まだ父は式台の上がり段のところに腰掛けながら、街道の空をながめていた。
「お父《とっ》さん、本陣のつとめもつくづくつらいと思って来ましたよ。」
「それを言うな。福島の御家中がどうあろうと、あの御隠居さまには御隠居さまのお考えがあって、わざわざお出かけになったと見えるわい。」


 東山道軍御本陣の執事から出た順路の日取りによると、二月二十三日は美濃の鵜沼《うぬま》宿お休み、太田宿お泊まりとある。その日、先鋒《せんぽう》はすでに中津川に到着するはずで、木曾福島から行った山村氏の
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