ように地方にいていくらかでも上納金の世話を命ぜられたものにわかる。西丸の復興ですらこのとおりだ。本丸の方の再度の造営はもとより困難と見られている。朝日夕日に輝いて八百八町《はっぴゃくやちょう》を支配するようにそびえ立っていたあの建築物も、周囲に松の緑の配置してあった高い白壁も、特色のあった窓々も、幕府大城の壮観はとうとうその美を失ってしまった。言って見れば、ここは広大な城下町である。大小の武家屋敷、すなわち上《かみ》屋敷、中《なか》屋敷、下《しも》屋敷、御用屋敷、小屋敷、百人組その他の組々の住宅など、皆大城を中心にしてあるようなものである、変革はこの封建都市に持ち来たされた。諸大名は国勝手を許され、その家族の多くは屋敷を去った。急激に多くの消費者を失った江戸は、どれほどの財界の混乱に襲われているやも知れないかのようである。
しかし、あの制度の廃止は文久の改革の結果だ。あれは時代の趨勢《すうせい》に着眼して幕政改革の意見を抱《いだ》いた諸国の大名や識者なぞの間に早くから考えられて来たことだ。もっと政治は明るくして新鮮な空気を注ぎ入れなければだめだとの多数の声に聞いて、京都の方へ返すべき慣例はどしどし廃される、幕府から任命していた皇居九門の警衛は撤去されるというふうに、多くの繁文縟礼《はんぶんじょくれい》が改められた時、幕府が大改革の眼目として惜しげもなく投げ出したのも参覲交代の旧《ふる》い慣例だ。もともと徳川氏にとっては重要なあの政策を捨てるということが越前《えちぜん》の松平春嶽《まつだいらしゅんがく》から持ち出された時に、幕府の諸有司の中には反対するものが多かったというが、一橋慶喜《ひとつばしよしのぶ》は越前藩主の意見をいれ、多くの反対説を排して、改革の英断に出た。今さらあの制度を復活するとなると、当時幕府を代表して京都の方に禁裡《きんり》守衛総督摂海|防禦《ぼうぎょ》指揮の重職にある慶喜の面目を踏みつぶすにもひとしい。遠くは紀州と一橋との将軍継嗣問題以来、苦しい反目を続けて来た幕府の内部は、ここにもその内訌《ないこう》の消息を語っていた。
それにしても、政治の中心はすでに江戸を去って、京都の方に移りつつある。いつまでも大江戸の昔の繁華を忘れかねているような諸有司が、いったん投げ出した政策を復活して、幕府の頽勢《たいせい》を挽回《ばんかい》しうるか、どうかは、半
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