。村内には松の樹《き》の皮を米にまぜ、自然薯《じねんじょ》なぞを掘って来て飢えをしのぐものもできた。それを聞くと、半蔵は捨て置くべき場合でないとして、町内有志への相応な救施を勧誘したいと思い立ったが、それには率先して自分の家の倉を開こうと決意した。
本陣の勝手口の木戸をあけたところに築《つ》いてある土竈《どがま》からはさかんに枯れ松葉の煙のいぶるような朝が来た。餅搗《もちつ》きの時に使う古い大釜《おおがま》がそこにかかった。日ごろ出入りの百姓たちは集まって来て竈《かまど》の前で働くものがある。倉から勝手口へ米を運ぶものもある。おまんやお民までが手ぬぐいをかぶり襷《たすき》がけで、ごく難渋なもののために白粥《しらがゆ》をたいた。
半蔵は佐吉を呼んで言った。
「お前は一つ村方へ回ってもらおう。朝の粥《かゆ》をお振る舞い申すから、お望みのかたはどなたでも小手桶《こておけ》をさげて来るようにッて、そう言っておくれ。」
そのわきには清助も立っていて、
「半蔵さま、これは家内何人という札にして渡しましょう。白米一升に水八升の割にして、一人に三合ずつ振る舞いましょう。」
この話が村方へ知れ渡るころには、小手桶をさげた貧窮な黒鍬《くろくわ》なぞが互いに誘い合わせて、本陣の門の内へ集まって来るようになった。その朝は吉左衛門も心配顔に、裏二階から母屋《もや》の方へ杖《つえ》をついて来た。「どうして天明三年の大飢饉《だいききん》はこんなものじゃなかったと言うよ。おれの吾家《うち》の古い帳面には、あの年のことが残ってる。桝田屋《ますだや》でも、伏見屋でも、梅屋でも、焚《た》き出しをして、毎朝百人から百二十人ほどの人数に粥《かゆ》を振る舞ったそうだよ。」
吉左衛門の思い出話だ。
五月を迎えるころには、馬籠の村民もこんな苦しいところを切り抜けた。尾州藩からの救助金は配当され、大井米もはいって来るようになった。百姓らはいずれも刈り取った麦に力を得て、柴落《しばおと》し、早苗取《さなえと》りと続いたいそがしい農事に元気づいた。そこにもここにも田植えのしたくが始まる。大風に、強雨に、天災のしきりにやって来た前年とも違い、陽気は極々上々《ごくごくじょうじょう》と聞いて、七十一歳の最後の思い出に、美濃の浅井の医師のもとへ養生の旅を思い立つ上の伏見屋の金兵衛のような人もある。
暮田正香と
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