秘してあったともいう。小笠原《おがさわら》老中なぞがそこそこに戦地を去ったのも、そのためであることがわかって来た。して見ると半蔵が名古屋出府のはじめのころには、将軍はすでに重い病床にあった人だ。名古屋城のなんとなく取り込んでいたことも、その時になって彼にはいろいろと想《おも》い当たる。
 将軍家の薨去と聞いて、諸藩の兵は続々戦地を去りつつあった。兵事をとどむべきよしの勅諚《ちょくじょう》も下り、「何がな休戦の機会もあれかし」と待っていた幕府でも紀州公が総督辞任および長防|討手《うって》諸藩兵全部引き揚げの建言を喜び迎えたとの報知《しらせ》すら伝わって来た。大坂城にあった将軍の遺骸《いがい》は老中|稲葉美濃守《いなばみののかみ》らに守護され、順動丸で江戸へ送られたとも言わるる。それらの報知《しらせ》を胸にまとめて見て、半蔵はいずれこの木曾街道に帰東の諸団体が通行を迎える日のあるべきことを感知した。同時に、敗戦を経験して来るそれらの関東方がこの宿場に置いて行く混雑をも想像した。
 種々《さまざま》な流言が伝わって来た。家茂公の薨去は一橋慶喜が京都と薩長とに心を寄せて常に台慮《たいりょ》に反対したのがその病因であるのだから、慶喜はすなわち公が薨去を促した人であると言い、はなはだしいのになると慶喜に望みを寄せる者があって家茂公の病中に看護を怠り、その他界を早めたのだなぞと言うものがある。もっとはなはだしいのになると、家茂公は筆の中に仕込んだ毒でお隠れになったのだと言って、そんな臆測《おくそく》をさも本当の事のように言い触らすものもある。いや、大坂城にある幕府方は引っ込みがつかなくなった。不幸な家茂公はその犠牲になったのだと言って、およそ困難という困難に際会せられた公の生涯《しょうがい》と、その忍耐温良の徳と、長防親征中の心痛とを数えて見せるものもある。
「暗い、暗い。」
 半蔵はひとりそれを言って、到底大きな変革なしに越えられないような封建社会の空気の薄暗さを思い、もはや諸国の空に遠く近く聞きつける鶏の鳴き声のような王政復古の叫びにまで、その薄暗さを持って行って見た。


「武家の奉公もこれまでかと思います。」
 半蔵は会所の方で伊之助と一緒になった時、頼みに思う相手の顔をつくづくと見て、その述壊をした。庄屋風情《しょうやふぜい》の彼ですら、江戸幕府の命脈がいくばくもないこ
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