さとくそれをききつけて、清助や下女に知らせるのもこの娘だ。
「お手が鳴りますよ。」
 本陣ではこの調子だ。
 その夕方に、半蔵は木曾福島の役所から呼ばれた用を済まし、野尻《のじり》泊まりで村へ帰って来た。家に泊まり客のあることも彼はその時に知った。諸大名や諸公役が通行のたびに休泊の室《へや》にあててある奥の上段の間には、幕府の大目付で外交奉行を兼ねた人が微行の姿でやって来ていて、山家の酒をあつらえるなぞの旅らしい時を送っていることをも知った。
 翌朝になって見ると、客人はなかなか起きない。暁から降り出した雨が客人のからだから疲労を引き出したかして、ようやく昼近くなって、上段の間の雨戸を繰らせる音がする。家来の衆までがっかりした顔つきで、雨を冒しても予定の宿へ出発するような様子がない。半蔵が挨拶《あいさつ》に行って見たころは、駿河《するが》は上段の間から薄縁《うすべり》の敷いてある廊下に出て、部屋《へや》の柱に倚《よ》りかかりながら坪庭《つぼにわ》へ来る雨を見ていた。石を載せた板屋根、色づいた葉の残った柿《かき》の梢《こずえ》なぞの木曾路らしいものは、その北側の廊下の位置からは望まれないまでも、たましいを落ち着けるによいような奥まった静かさはその部屋の内にも外にもある。
「だいぶごゆっくりでございますな。今日は御逗留《ごとうりゅう》のおつもりでいらっしゃいますか。」
「そう願いましょう。きょうは一日休ませてもらいましょう。江戸へと思って急いでは来ましたが、ここまで来て見たら、ひどく疲れが出ましたよ。このお天気じゃ出かける気にもなれません。しかし、木曾へはいって雨に降りこめられるのも悪くありませんね。」
「ことしは雨の多い年でして、閏《うるう》の五月あたりから毎日よく降りました。当年のように強雨《ごうう》の来たことは古老も覚えがない、そんなことを申しまして、一時はかなり心配したくらいでした。川留め、川留めで、旅のかたが御逗留になることは、この地方ではめずらしいことでもございません。」
 午後にも半蔵はこの客人を見に来た。雨の日の薄暗い光線は、その白地に黒く雲形を織り出した高麗縁《こうらいべり》の畳の上にさして来ている。そこは彦根《ひこね》の城主|井伊掃部頭《いいかもんのかみ》も近江から江戸への往《ゆ》き還《かえ》りに必ずからだを休め、監察の岩瀬肥後も神奈川条約上奏のため
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