は種々《さまざま》な風評が立った。あるいは水戸浪士はうまくやられたのだ、金沢藩のために欺かれたのだ、そんな説までが半蔵の耳に聞こえて来た。現に伊那の方にいる暮田正香なぞもその説であるという。しかし半蔵はそれを穿《うが》ち過ぎた説だとして、伯耆《ほうき》から敦賀を通って近く帰って来た諏訪頼岳寺《すわらいがくじ》の和尚《おしょう》なぞの置いて行った話の方を信じたかった。いよいよ金沢藩が武器人員の引き渡しを終わった時に、敦賀|本勝寺《ほんしょうじ》の書院に耕雲斎らを見に行って胸がふさがったという永原甚七郎の古武士らしい正直さを信じたかった。
 田沼侯に対する世間の非難の声も高い。水戸浪士を敵として戦い負傷までした諏訪藩の用人|塩原彦七《しおばらひこしち》ですらそれを言って、幕府の若年寄《わかどしより》ともあろう人が士を愛することを知らない、武の道の立たないことも久しいと言って、嘆息したとも伝えらるる。この諏訪藩の用人は田沼侯を評して言った。浪士らの勢いのさかんな時は二十里ずつの距離の外に屏息《へいそく》し、徐行|逗留《とうりゅう》してあえて近づこうともせず、いわゆる風声鶴唳《ふうせいかくれい》にも胆《きも》が身に添わなかったほどでありながら、いったん浪士らが金沢藩に降《くだ》ったと見ると、虎の威を借りて刑戮《けいりく》をほしいままにするとはなんという卑怯《ひきょう》さだと。しかしまた一方には、個人としての田沼侯はそんな思い切ったことのできる性質ではなく、むしろ肥満長身の泰然たる風采《ふうさい》の人で、天狗連《てんぐれん》追討のはじめに近臣の眠りをさまさせるため金米糖《こんぺいとう》を席にまき、そんなことをして終夜戒厳したほどの貴公子に過ぎない、周囲の者がその刑戮《けいりく》をあえてさせたのだと言うものも出て来た。
 千余人の同勢と言われた水戸浪士も、途中で戦死するもの、負傷するもの、沿道で死亡するものを出して、敦賀まで到着するころには八百二十三人だけしか生き残らなかった。そのうちの三百五十三名が前後五日にわたって敦賀郡松原村の刑場で斬《き》られた。耕雲斎ら四人の首級は首桶《くびおけ》に納められ、塩詰めとされたが、その他のものは三|間《げん》四方の五つの土穴の中へ投げ込まれた。残る二百五十名は遠島を申し付けられ、百八十名の雑兵歩人らと、数名の婦人と、十五名の少年とが無構《む
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