ったと景蔵は書いている。この石清水行幸は帝としても京都の町を離れる最初の時で、それまで大山大川なぞも親しくは叡覧《えいらん》のなかったのに、初めて淀川《よどがわ》の滔々《とうとう》と流るるのを御覧になって、さまざまのことを思《おぼ》し召され、外夷《がいい》親征なぞの御艱難《ごかんなん》はいうまでもなく、国家のために軽々しく龍体《りゅうたい》を危うくされ給《たも》うまいと慮《おもんぱか》らせられたとか。帝には還幸の節、いろいろな御心づかいに疲れて、紫宸殿《ししんでん》の御車寄せのところで水を召し上がったという話までが、景蔵からの便りにはこまごまと認《したた》めてある。
聞き伝えにしてもこの年上の友だちが書いてよこすことはくわしかった。景蔵には飯田《いいだ》の在から京都に出ている松尾|多勢子《たせこ》(平田|鉄胤《かねたね》門人)のような近い親戚《しんせき》の人があって、この婦人は和歌の道をもって宮中に近づき、女官たちにも近づきがあったから、その辺から出た消息かと半蔵には想《おも》い当たる。いずれにしても、その手紙は半蔵にあてたありのままな事実の報告らしい。景蔵はまた今の京都の空気が実際にいかなるものであるかを半蔵に伝えたいと言って、石清水行幸後に三条の橋詰《はしづ》めに張りつけられたという評判な張り紙の写しまでも書いてよこした。
[#地から7字上げ]徳川家茂
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「右は、先ごろ上洛《じょうらく》後、天朝より仰せ下されたる御趣意のほどもこれあり候《そうろう》ところ、表には勅命尊奉の姿にて、始終|虚喝《きょかつ》を事とし、言を左右によせて万端因循にうち過ぎ、外夷《がいい》拒絶談判の期限等にいたるまで叡聞《えいぶん》を欺きたてまつる。あまつさえ帰府の儀を願い出《い》づるさえあるに、石清水行幸の節はにわかに虚病《けびょう》を構え、一橋中納言《ひとつばしちゅうなごん》においてもその場を出奔いたし、至尊をあなどり奉りたるごとき、その他、板倉周防守《いたくらすおうのかみ》、岡部駿河守《おかべするがのかみ》らをはじめ奸吏《かんり》ども数多くこれありて、井伊掃部頭《いいかもんのかみ》、安藤対馬守《あんどうつしまのかみ》らの遺志をつぎ、賄賂《わいろ》をもって種々|奸謀《かんぼう》を行ない、実《じつ》もって言語道断、不届きの至りなり。右は、天下こぞって誅戮《ちゅうりく
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