「何にいたせ、あの同勢が鋭い抜き身の鎗《やり》や抜刀で馬籠の方から押して来ました時は、恐ろしゅうございました。」
それを儀十郎が言うと、子息は子息で、
「あの藤田小四郎が吾家《うち》へも書いたものを残して行きましたよ。大きな刀をそばに置きましてね、何か書くから、わたしに紙を押えていろと言われた時は、思わずこの手が震えました。」
「勝重、あれを持って来て、浅見さんにも蜂谷《はちや》さんにもお目にかけな。」
浪士らは行く先に種々《さまざま》な形見を残した。景蔵のところへは特に世話になった礼だと言って、副将田丸稲右衛門が所伝の黒糸縅《くろいとおどし》の甲冑片袖《かっちゅうかたそで》を残した。それは玉子色の羽二重《はぶたえ》に白麻の裏のとった袋に入れて、別に自筆の手厚い感謝状を添えたものである。
「馬籠の御本陣へも何か残して置いて行ったようなお話です。」と儀十郎が言う。
「どうせ、帰れる旅とは思っていないからでしょう。」
景蔵の答えだ。
その時、勝重は若々しい目つきをしながら、小四郎の記念というものを奥から取り出して来た。景蔵らの目にはさながら剣を抜いて敵王の衣を刺し貫いたという唐土《とうど》の予譲《よじょう》を想《おも》わせるようなはげしい水戸人の気性《きしょう》がその紙の上におどっていた。しかも、二十三、四歳の青年とは思われないような老成な筆蹟《ひっせき》で。
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大丈夫当雄飛《だいじょうふまさにゆうひすべし》安雌伏《いずくんぞしふくせんや》
[#地から2字上げ]藤田信
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「そう言えば、浪士もどの辺まで行きましたろう。」
景蔵らと稲葉屋親子の間にはそんなうわさも出る。
その後の浪士らが美濃を通り過ぎて越前《えちぜん》の国まではいったことはわかっていた。しかしそれから先の消息は判然《はっきり》しない。中津川や落合へ飛脚が持って来る情報によると、十一月二十七日に中津川を出立した浪士らは加納藩《かのうはん》や大垣藩《おおがきはん》との衝突を避け、本曾街道の赤坂、垂井《たるい》あたりの要処には彦根藩《ひこねはん》の出兵があると聞いて、あれから道を西北方に転じ、長良川《ながらがわ》を渡ったものらしい。師走《しわす》の四日か五日ごろにはすでに美濃と越前の国境《くにざかい》にあたる蝿帽子峠《はえぼうしとうげ》の険路を越えて行った
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