田《うえだ》の人で児玉《こだま》政雄《まさお》という医者がひところ馬籠に来て住んでいたことがある。その人に『詩経《しきょう》』の句読《くとう》を受けたのは、半蔵が十一歳の時にあたる。小雅《しょうが》の一章になって、児玉は村を去ってしまって、もはや就《つ》いて学ぶべき師もなかった。馬籠の万福寺には桑園和尚《そうえんおしょう》のような禅僧もあったが、教えて倦《う》まない人ではなかった。十三歳のころ、父吉左衛門について『古文真宝《こぶんしんぽう》』の句読を受けた。当時の半蔵はまだそれほど勉強する心があるでもなく、ただ父のそばにいて習字をしたり写本をしたりしたに過ぎない。そのうちに自ら奮って『四書《ししょ》』の集註《しゅうちゅう》を読み、十五歳には『易書《えきしょ》』や『春秋《しゅんじゅう》』の類《たぐい》にも通じるようになった。寒さ、暑さをいとわなかった独学の苦心が、それから十六、七歳のころまで続いた。父吉左衛門は和算を伊那《いな》の小野《おの》村の小野|甫邦《ほほう》に学んだ人で、その術には達していたから、半蔵も算術のことは父から習得した。村には、やれ魚|釣《つ》りだ碁将棋だと言って時を送
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