った後にようやく草稿のできたのが安政の年の条約だ。
 草稿はできた。諸大名は江戸城に召集された。その時、井伊大老が出《い》で、和親貿易の避けがたいことを述べて、委細は監察の岩瀬肥後に述べさせるから、とくときいたあとで諸君各自の意見を述べられるようにと言った。そこで大老は退いて、彼が代わって諸大名の前に進み出た。その時の彼の声はよく徹《とお》り、言うこともはっきりしていて、だれ一人異議を唱えるものもない。いずれも時宜に適《かな》った説だとして、よろこんで退出した。ところが数日後に諸大名各自の意見書を出すころになると、ことごとく前の日に言ったことを覆《くつがえ》して、彼の説を破ろうとするものが出て来た。それは多く臣下の手に成ったものだ。君侯といえどもそれを制することができなかったのだ。そこで彼は水戸《みと》の御隠居や、尾州《びしゅう》の徳川|慶勝《よしかつ》や、松平|春嶽《しゅんがく》、鍋島閑叟《なべしまかんそう》、山内|容堂《ようどう》の諸公に説いて、協力して事に当たることを求めた。岩瀬肥後の名が高くなったのもそのころからだ。
 しかし、条約交渉の相手方なるヨーロッパ人が次第に態度を改め
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