であることも想《おも》い知られよう。嘉永《かえい》年代、アメリカの軍艦が渡って来た日のように、外国関係の一大事変に当たっては、幕府の上のものも下のものも皆強い衝動を受けた。その衝動が非常な任撰《にんせん》を行なわせた。人材を登庸《とうよう》しなければだめだということを教えたのも、またその刺激だ。従来親子共に役に就《つ》いているものがあれば、子は賢くても父に超《こ》えることはできなかったのが旧《ふる》い規則だ。それを改めて、三人のものが監察に抜擢《ばってき》せられた。その中の一人《ひとり》が岩瀬肥後なのだ。
岩瀬肥後は名を忠震《ただなり》といい、字《あざな》を百里という。築地《つきじ》に屋敷があったところから、号を蟾州《せんしゅう》とも言っている。心あるものはいずれもこの人を推して、幕府内での第一の人とした。たとえばオランダから観光船を贈って来た時に矢田堀景蔵《やたぼりけいぞう》、勝麟太郎《かつりんたろう》なぞを小普請役《こぶしんやく》から抜いて、それぞれ航海の技術を学ばせたのも彼だ。下曽根金三郎《しもそねきんざぶろう》、江川太郎左衛門《えがわたろうざえもん》には西洋の砲術を訓練させる
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