」
宿の人に呼んでもらった村の髪結いが油じみた台箱をさげながら半蔵の部屋《へや》にはいって来た。ぐっすり半日ほど眠ったあとで、半蔵は参籠に乱れた髪を結い直してもらった。元結《もとゆい》に締められた頭には力が出た。気もはっきりして来た。そばにいる勝重を相手に、いろいろ将来の身の上の話なぞまで出るのも、こうした静かな禰宜の家なればこそだ。
「勝重さん、君もそう長くわたしのそばにはいられまいね。来年あたりは落合《おちあい》の方へ帰らにゃなるまいね。きっと家の方では、君の縁談が待っていましょう。」
「わたしはもっと勉強したいと思います。そんな話がありましたけれど、まだ早いからと言って断わりました。」
勝重はそれを言うにも顔を紅《あか》らめる年ごろだ。そこへ禰宜が半蔵を見に来た。禰宜は半蔵のことを「青山さん」と呼ぶほどの親しみを見せるようになった。里宮参籠記念のお札、それに神饌《しんせん》の白米なぞを用意して来て、それを部屋の床の間に置いた。
「これは馬籠へお持ち帰りを願います。」と禰宜は言った。「それから一つお願いがあります。あの御神前へおあげになった歌は、結構に拝見しました。こんな辺鄙《へんぴ》なところで、ろくな短冊《たんざく》もありませんが、何かわたしの家へも記念に残して置いていただきたい。」
禰宜はその時、手をたたいて家のものを呼んだ。自分の子息《むすこ》をその部屋に連れて来させた。
「青山さん、これは八つになります。おそ生まれの八つですが、手習いなぞの好きな子です。ごらんのとおりな山の中で、よいお師匠さまも見当たらないでいます。どうかこれを御縁故に、ちょくちょく王滝へもお出かけを願いたい。この子にも、本でも教えてやっていただきたい。」
禰宜はこの調子だ。さらに言葉をついで、
「福島からここまでは五里と申しておりますが、正味四里半しかありません。青山さんは福島へはよく御出張でしょう。あの行人橋《ぎょうにんばし》から御嶽山道について常磐《ときわ》の渡しまでお歩きになれば、今度お越しになったと同じ道に落ち合います。この次ぎはぜひ、福島の方からお回りください。」
「えゝ。王滝は気に入りました。こんな仙郷《せんきょう》が木曾にあるかと思うようです。またおりを見てお邪魔にあがりますよ。わたしもこれでいそがしいからだですし、御承知の世の中ですから、この次ぎやって来られるのはいつのことですか。まあ、王滝川の音をよく聞いて行くんですね。」
半蔵はそばにいる勝重に墨を磨《す》らせた。禰宜から求めらるるままに、自作の歌の一つを短冊に書きつけた。
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梅の花|匂《にお》はざりせば降る雨にぬるる旅路《たびじ》は行きがてましを[#地から6字上げ]半蔵
[#ここで字下げ終わり]
そろそろ半蔵には馬籠の家の方のことが気にかかって来た。一月《ひとつき》からして陽気の遅れた王滝とも違い、彼が御嶽の話を持って父吉左衛門をよろこばしうる日は、あの木曾路の西の端はもはや若葉の世界であろうかと思いやった。将軍|上洛《じょうらく》中の京都へと飛び込んで行った友人香蔵からの便《たよ》りは、どんな報告をもたらして、そこに自分を待つだろうかとも思いやった。万事不安のうちに、むなしく春の行くことも惜しまれた。
「そうだ、われわれはどこまでも下から行こう。庄屋には庄屋の道があろう。」
と彼は思い直した。水垢離《みずごり》と、極度の節食と、時には滝にまで打たれに行った山籠《やまごも》りの新しい経験をもって、もう一度彼は馬籠の駅長としての勤めに当たろうとした。
御嶽のすそを下ろうとして、半蔵が周囲を見回した時は、黒船のもたらす影響はこの辺鄙《へんぴ》な木曾谷の中にまで深刻に入り込んで来ていた。ヨーロッパの新しい刺激を受けるたびに、今まで眠っていたものは目をさまし、一切がその価値を転倒し始めていた。急激に時世遅れになって行く古い武器がある。眼前に潰《つい》えて行く旧《ふる》くからの制度がある。下民百姓は言うに及ばず、上御一人《かみごいちにん》ですら、この驚くべき分解の作用をよそに、平静に暮らさるるとは思われないようになって来た。中世以来の異国の殻《から》もまだ脱ぎ切らないうちに、今また新しい黒船と戦わねばならない。半蔵は『静の岩屋』の中にのこった先師の言葉を繰り返して、測りがたい神の心を畏《おそ》れた。
底本:「夜明け前 第一部(上)」岩波文庫、岩波書店
1969(昭和44)年1月16日第1刷発行
底本の親本:「改版本『夜明け前』」新潮社
1936(昭和11)年7月発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
※「ポルトガル」は、第二部ではすべて「ホルトガル」と表記されている
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