もよくあの時分におうわさしましたよ。」
「もう大丈夫です。ただ筆を持てないのと、箒《ほうき》を持てないのには――これにはほとんど閉口です。」
「吉左衛門さんの庭|掃除《そうじ》は有名だから。」
金兵衛は笑った。そこへ伊之助も新築した家の方からやって来る。一同の話は宿場の前途に関係の深い今度の参覲交代制度改革のことに落ちて行った。
「助郷《すけごう》にも弱りました。」と言い出すのは金兵衛だ。「宮様御通行の時は特別の場合だ、あれは当分の臨機の処置だなんて言ったって、そうは時勢が許さない。一度|増助郷《ましすけごう》の例を開いたら、もう今までどおりでは助郷が承知しなくなったそうですよ。」
「そういうことが当然起こって来ます。」と吉左衛門が言う。
「現に、」伊之助は二人の話を引き取って、「あの公家衆《くげしゅう》の御通行は四月の八日でしたから、まだこんな改革のお達しの出ない前です。あの時は大湫《おおくて》泊まりで、助郷人足六百人の備えをしろと言うんでしょう。みんな雇い銭でなけりゃ出て来やしません。」
「いくら公家衆でも、六百人の人足を出せはばかばかしい。」と半蔵は言った。
「それもそうだ。」と金兵衛は言葉をつづける。「あの公家衆の御通行には、差し引き、四両二分三朱、村方の損になったというじゃありませんか。」
「とにかく、御通行はもっと簡略にしたい。」とまた半蔵は言った。「いずれこんな改革は道中奉行へ相談のあったことでしょう。街道がどういうことになって行くか、そこまではわたしにも言えませんがね。しかし上から見ても下から見ても、参覲交代のような儀式ばった御通行がそういつまで保存のできるものでもないでしょう。繁文縟礼《はんぶんじょくれい》を省こう、その費用をもっと有益な事に充《あ》てよう、なるべく人民の負担をも軽くしよう――それがこの改革の御趣意じゃありませんかね。」
「金兵衛さん、君はこの改革をどう思います。今まで江戸の方に人質のようになっていた諸大名の奥方や若様が、お国もとへお帰りになると言いますぜ。」
と吉左衛門が言うと、旧《ふる》い友だちも首をひねって、
「さあ、わたしにはわかりません。――ただ、驚きます。」
その時になって見ると、江戸から報じて来る文久年度の改革には、ある悲壮な意志の歴然と動きはじめたものがあった。参覲交代のような幕府にとって最も重大な政策が惜しげもなく投げ出されたばかりでなく、大赦は行なわれる、山陵は修復される、京都の方へ返していいような旧《ふる》い慣例はどしどし廃された。幕府から任命していた皇居九門の警衛までも撤去された。およそ幕府の力にできるようなことは、松平春嶽を中心の人物にし山内容堂を相談役とする新内閣の手で行なわれるようになった。
封建時代にあるものの近代化は、後世を待つまでもなく、すでにその時に始まって来た。松平春嶽、山内容堂、この二人《ふたり》はそれぞれの立場にあり、領地の事情をも異にしていたが、時代の趨勢《すうせい》に着眼して早くから幕政改革の意見を抱《いだ》いたことは似ていた。その就職以前から幕府に対して同情と理解とを持つことにかけても似ていた。水戸の御隠居、肥前《ひぜん》の鍋島閑叟《なべしまかんそう》、薩摩《さつま》の島津久光の諸公と共に、生前の岩瀬肥後から啓発せらるるところの多かったということも似ていた。あの四十に手が届くか届かないかの若さで早くこの世を去った岩瀬肥後ののこした開国の思想が、その人の死後になってまた働き初めたということにも不思議はない。蕃書《ばんしょ》調所は洋書調所(開成所、後の帝国大学の前身)と改称される。江戸の講武所《こうぶしょ》における弓術や犬追物《いぬおうもの》なぞのけいこは廃されて、歩兵、騎兵、砲兵の三兵が設けられる。井伊大老在職の当時に退けられた人材はまたそれぞれの閑却された位置から身を起こしつつある。門閥と兵力とにすぐれた会津《あいづ》藩主松平|容保《かたもり》は、京都守護職の重大な任務を帯びて、新たにその任地へと向かいつつある。
時には、オランダ留学生派遣のうわさが夢のように半蔵の耳にはいる。二度も火災をこうむった江戸城建築のころは、まだ井伊大老在職の日で、老中水野越前守が造り残した数百万両の金銀の分銅《ふんどう》はその時に費やされたといわれ、公儀の御金庫《おかねぐら》はあれから全く底を払ったと言われる。それほど苦しい身代のやり繰りの中で、今度の新内閣がオランダまで新知識を求めさせにやるというその思い切った方針が、半蔵を驚かした。
ちょうど、父吉左衛門は家にいて、例の寛《くつろ》ぎの間《ま》にこもって、もはや退役の日のしたくなぞを始めていた。祖父半六は六十六歳まで宿役人を勤め、それから家督を譲って隠居したが、父は六十四歳でそれをするというふうに
前へ
次へ
全119ページ中97ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
島崎 藤村 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング