方を選ぶことになった。東海道筋はすこぶる物騒で、志士浪人が途《みち》に御東下を阻止するというような計画があると伝えられるからで。この際、奉行としては道中宿々と助郷加宿とに厳達し、どんな無理をしても人馬を調達させ、供奉《ぐぶ》の面々が西から続々殺到する日に備えねばならない。徳川政府の威信の実際に試《ため》さるるような日が、とうとうやって来た。


 寿平次は妻籠の本陣にいた。彼はその自宅の方で、伊那の助郷六十五か村の意向を探りに行った扇屋得右衛門《おうぎやとくえもん》の帰りを待ち受けていた。ちょうど、半蔵が妻のお民も、半年ぶりで実家のおばあさんを見るために、馬籠から着いた時だ。彼女はたまの里帰りという顔つきで、母屋《もや》の台所口から広い裏庭づたいに兄のいるところへもちょっと挨拶《あいさつ》に来た。
「来たね。」
 寿平次の挨拶は簡単だ。
 そこは裏山につづいた田舎風《いなかふう》な庭の一隅《いちぐう》だ。寿平次は十間ばかりの矢場をそこに設け、粗末ながらに小屋を造りつけて、多忙な中に閑《ひま》を見つけては弓術に余念もない。庄屋《しょうや》らしい袴《はかま》をつけ、片肌《かたはだ》ぬぎになって、右の手に※[#「革+喋のつくり」、第4水準2−92−7]《ゆがけ》の革《かわ》の紐《ひも》を巻きつけた兄をそんなところに見つけるのも、お民としてはめずらしいことだった。
 お民は持ち前の快活さで、
「兄さんも、のんきですね。弓なぞを始めたんですか。」
「いくらいそがしいたって、お前、弓ぐらいひかずにいられるかい。」
 寿平次は妹の見ている前で、一本の矢を弦《つる》に当てがった。おりから雨があがったあとの日をうけて、八寸ばかりの的《まと》は安土《あづち》の方に白く光って見える。
「半蔵さんも元気かい。」
 と妹に話しかけながら、彼は的に向かってねらいを定めた。その時、弦を離れた矢は的をはずれたので、彼はもう一本の方を試みたが、二本とも安土《あづち》の砂の中へ行ってめり込んだ。
 この寿平次は安土の方へ一手の矢を抜きに行って、また妹のいるところまで引き返して来る時に言った。
「お民、馬籠のお父《とっ》さん(吉左衛門)や、伏見屋の金兵衛さんの退役願いはどうなったい。」
「あの話は兄さん、おきき届けになりませんよ。」
「ほう。退役きき届けがたしか。いや、そういうこともあろう。」
 多事な街道のことも思い合わされて、寿平次はうなずいた。
「お民、お前も骨休めだ。まあ二、三日、妻籠で寝て行くさ。」
「兄さんの言うこと。」
 兄妹《きょうだい》がこんな話をしているところへ、つかつかと庭を回って伊那から帰ったばかりの顔を見せたのは、日ごろ勝手を知った得右衛門である。伊那でも有力な助郷総代を島田村や山村に訪《たず》ねるのに、得右衛門はその適任者であるばかりでなく、妻籠|脇本陣《わきほんじん》の主人として、また、年寄役の一人《ひとり》として、寿平次の父が早く亡《な》くなってからは何かにつけて彼の後見役《こうけんやく》となって来たのもこの得右衛門である。得右衛門の家で造り酒屋をしているのも、馬籠の伏見屋によく似ていた。
 寿平次はお民に目くばせして、そこを避けさせ、母屋《もや》の方へ庭を回って行く妹を見送った。小屋の荒い壁には弓をたてかけるところもある。彼は※[#「革+喋のつくり」、第4水準2−92−7]《ゆがけ》の紐《ひも》を解いて、その隠れた静かな場所に気の置けない得右衛門を迎えた。
 得右衛門の報告は、寿平次が心配して待っていたとおりだった。伊那助郷が木曾にある下四宿の宿役人を通し、あるいは直接に奉行所にあてて愁訴を企てたのは、その日に始まったことでもない。三十一か村の助郷を六十五か村で分担するようになったのも、実は愁訴の結果であった。ずっと以前の例によると、助郷を勤める村々は五か年を平均して、人足だけでも一か年の石高《こくだか》百石につき、十七人二分三厘三毛ほどに当たる。しかしこれは天保年度のことで、助郷の負担は次第に重くなって来ている。ことに、黒船の渡って来た嘉永年代からは、諸大名公役らが通行もしげく、そのたびに徴集されて嶮岨《けんそ》な木曾路を往復することであるから、自然と人馬も疲れ、病人や死亡者を生じ、継立《つぎた》てにもさしつかえるような村々が出て来た。いったい、助郷人足が宿場の勤めは一日であっても、山を越して行くには前の日に村方を出て、その晩に宿場に着き、翌日勤め、継ぎ場の遠いところへ継ぎ送って宿場へ帰ると、どうしてもその晩は村方へ帰りがたい。一日の勤めに前後三日、どうかすると四日を費やし、あまつさえ泊まりの食物の入費も多く、折り返し使わるる途中で小遣銭《こづかいせん》もかかり、その日に取った人馬賃銭はいくらも残らない。ことさら遠い村方ではこの
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