くの人を驚かした。そのうわさもまた一つの流言を生んだ。安藤対馬はひそかに外国人と結託している。英国公使アールコックに自分の愛妾《あいしょう》まで与え許している、堀織部はそれを苦諫《くかん》しても用いられないので、刃《やいば》に伏してその意を致《いた》したというのだ。流言は一編の偽作の諫書にまでなって、漢文で世に行なわれた。堀織部の自殺を憐《あわれ》むものが続々と出て来て、手向《たむ》けの花や線香がその墓に絶えないというほどの時だ。
 だれもがこんな流言を疑い、また信じた。幕府の威信はすでに地を掃《はら》い、人心はすでに徳川を離れて、皇室再興の時期が到来したというような声は、血気|壮《さか》んな若者たちの胸を打たずには置かなかった。
 その年の八月には、半蔵は名高い水戸《みと》の御隠居(烈公)の薨去《こうきょ》をも知った。吉左衛門親子には間接な主人ながらに縁故の深い尾張藩主(徳川|慶勝《よしかつ》)をはじめ、一橋慶喜《ひとつばしよしのぶ》、松平春嶽《まつだいらしゅんがく》、山内容堂《やまのうちようどう》、その他安政大獄当時に幽屏《ゆうへい》せられた諸大名も追い追いと謹慎を解かれる日を迎えたが、そういう中にあって、あの水戸の御隠居ばかりは永蟄居《えいちっきょ》を免ぜられたことも知らずじまいに、江戸|駒込《こまごめ》の別邸で波瀾《はらん》の多い生涯《しょうがい》を終わった。享年六十一歳。あだかも生前の政敵井伊大老のあとを追って、時代から沈んで行く夕日のように。
 半蔵が年上の友人、中津川本陣の景蔵は、伊那にある平田同門北原稲雄の親戚《しんせき》で、また同門松尾|多勢子《たせこ》とも縁つづきの間柄である。この人もしばらく京都の方に出て、平田門人としての立場から多少なりとも国事に奔走したいと言って、半蔵のところへもその相談があった。日ごろ謙譲な性質で、名聞《みょうもん》を好まない景蔵のような友人ですらそうだ。こうなると半蔵もじっとしていられなかった。
 父は老い、街道も日に多事だ。本陣問屋庄屋の仕事は否《いや》でも応《おう》でも半蔵の肩にかかって来た。その年の十月十九日の夜にはまた、馬籠の宿は十六軒ほど焼けて、半蔵の生まれた古い家も一晩のうちに灰になった。隣家の伏見屋、本陣の新宅、皆焼け落ちた。風あたりの強い位置にある馬籠峠とは言いながら、三年のうちに二度の大火は、村としても深い打撃であった。


 翌|文久《ぶんきゅう》元年の二月には、半蔵とお民は本陣の裏に焼け残った土蔵のなかに暮らしていた。土蔵の前にさしかけを造り、板がこいをして、急ごしらえの下竈《したへっつい》を置いたところには、下女が炊事をしていた。土蔵に近く残った味噌納屋《みそなや》の二階の方には、吉左衛門夫妻が孫たちを連れて仮住居《かりずまい》していた。二間ほど座敷があって、かつて祖父半六が隠居所にあててあったのもその二階だ。その辺の石段を井戸の方へ降りたところから、木小屋、米倉なぞのあるあたりへかけては、火災をまぬかれた。そこには佐吉が働いていた。
 旧暦二月のことで、雪はまだ地にある。半蔵は仮の雪隠《せっちん》を出てから、焼け跡の方を歩いて、周囲を見回した。上段の間、奥の間、仲の間、次の間、寛《くつろ》ぎの間、店座敷、それから玄関先の広い板の間など、古い本陣の母屋《もや》の部屋《へや》部屋は影も形もない。灰寄せの人夫が集まって、釘《くぎ》や金物の類《たぐい》を拾った焼け跡には、わずかに街道へ接した塀《へい》の一部だけが残った。
 さしあたりこの宿場になくてかなわないものは、会所(宿役人寄合所)だ。幸い九太夫の家は火災をまぬかれたので、仮に会所はそちらの方へ移してある。問屋場の事務も従来吉左衛門の家と九太夫の家とで半月交替に扱って来たが、これも一時九太夫方へ移してある。すべてが仮《かり》で、わびしく、落ち着かなかった。吉左衛門は半蔵に力を添えて、大工を呼べ、新しい母屋の絵図面を引けなどと言って、普請工事の下相談もすでに始まりかけているところであった。
 京都にある帝《みかど》の妹君、和宮内親王《かずのみやないしんのう》が時の将軍(徳川|家茂《いえもち》)へ御降嫁とあって、東山道《とうさんどう》御通行の触れ書が到来したのは、村ではこの大火後の取り込みの最中であった。
 宿役人一同、組頭《くみがしら》までが福島の役所から来た触れ書を前に置いて、談《はな》し合わねばならないような時がやって来た。この相談には、持病の咳《せき》でこもりがちな金兵衛までが引っぱり出された。
 吉左衛門は味噌納屋の二階から、金兵衛は上の伏見屋の仮住居《かりずまい》から、いずれも仮の会所の方に集まった。その時、吉左衛門は旧《ふる》い友だちを見て、
「金兵衛さん、馬籠の宿でも御通行筋の絵図面を差し出せとあ
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