ない。また、これほど当時の人たちの悩みを言いあらわした言葉もない。前者を主張するものから見れば攘夷は実に頑執妄排《がんしゅうもうはい》であり、後者を主張するものから見れば開港は屈従そのものである。どうかして自分らの内部《なか》にあるものを護《まも》り育てて行こうとしているような心ある人たちは、いずれもこの矛盾に苦しみ、時代の悩みを悩んでいたのだ。
 牡丹屋《ぼたんや》の裏二階からは、廊下の廂《ひさし》に近く枝をさし延べている椎《しい》の樹《き》の梢《こずえ》が見える。寛斎はその静かな廊下に出て、ひとりで手をもんだ。
「おれも、平田門人の一人として、こんな恐ろしい大獄に無関心でいられるはずもない。しかし、おれには、あきらめというものができた。」


「さぞ、御退屈さまでございましょう。」
 そう言って、牡丹屋の年とった亭主《ていしゅ》はよく寛斎を見に来る。東海道筋にあるこの神奈川の宿は、古いといえば古い家で、煙草盆《たばこぼん》は古風な手さげのついたのを出し、大きな菓子鉢《かしばち》には扇子形《せんすがた》の箸入《はしい》れを添えて出すような宿だ。でも、わざとらしいところは少しもなく、客扱いも親切だ。
 寛斎は日に幾たびとなく裏二階の廊下を往《い》ったり来たりするうちに、目につく椎《しい》の風情《ふぜい》から手習いすることを思いついた。枝に枝のさした冬の木にながめ入っては、しきりと習字を始めた。そこへ宿の亭主が来て見て、
「オヤ、御用事のほかはめったにお出かけにならないと思いましたら、お手習いでございますか。」
「六十の手習いとはよく言ったものさね。」
「手前どもでも初めての孫が生まれまして、昨晩は七夜《しちや》を祝いました。いろいろごだごだいたしました。さだめし、おやかましかろうと存じます。」
 こんな言葉も、この亭主の口から聞くと、ありふれた世辞とは響かなかった。横浜の海岸近くに大きな玉楠《たまぐす》の樹《き》がしげっている、世にやかましい神奈川条約はあの樹の下で結ばれたことなぞを語って見せるのも、この亭主だ。あの辺は駒形水神《こまがたすいじん》の杜《もり》と呼ばれるところで、玉楠《たまぐす》の枝には巣をかける白い鴉《からす》があるが、毎年冬の来るころになるとどこともなく飛び去ると言って見せるのも、この亭主だ。生糸の売り込みとはなんと言ってもよいところへ目をつけたものだ、外国貿易ももはや売ろうと買おうと勝手次第だ、それでも御紋付きの品々、雲上の明鑑、武鑑、兵学書、その他|甲冑《かっちゅう》刀剣の類《たぐい》は厳禁であると数えて見せるのも、この亭主だ。
 旧暦十二月のさむい日が来た。港の空には雪がちらついた。例のように寛斎は宿の机にむかって、遠く来ている思いを習字にまぎらわそうとしていた。そこへ江戸両国の十一屋から届いたと言って、宿の年とったかみさんが二通の手紙を持って来た。その時、かみさんは年老いた客をいたわり顔に、盆に載せた丼《どんぶり》を階下《した》から女中に運ばせた。見ると、寛斎の好きなうどんだ。
「うどんのごちそうですか。や、そいつはありがたい。」
「これはうでまして、それからダシで煮て見ました。お塩で味がつけてございます。これが一番さっぱりしているかと思いますが、一つ召し上がって見てください。」
「うどんとはよい物を造ってくだすった。わたしはお酒の方ですがね、寒い日にはこれがまた何よりですよ。」
「さあ、お口に合いますか、どうですか。手前どもではよくこれをこしらえまして、年寄りに食べさせます。」
 牡丹屋ではすべてこの調子だ。
 一通の手紙は木曾《きそ》から江戸を回って来たものだ。馬籠《まごめ》の方にいる伏見屋金兵衛《ふしみやきんべえ》からのめずらしい消息だ。最愛の一人息子《ひとりむすこ》、鶴松《つるまつ》の死がその中に報じてある。鶴松も弱かった子だ。あの少年のからだは、医者としての寛斎も診《み》てよく知っている。馬籠の伏見屋から駕籠《かご》で迎いが来るたびに、寛斎は薬箱をさげて、美濃《みの》と信濃《しなの》の国境《くにざかい》にあたる十曲峠《じっきょくとうげ》をよく急いだものだ。筆まめな金兵衛はあの子が生前に寛斎の世話になった礼から始めて、どうかして助けられるものならの願いから、あらゆる加持祈祷《かじきとう》を試み、わざわざ多賀の大社まで代参のものをやって病気全快を祈らせたことや、あるいは金毘羅大権現《こんぴらだいごんげん》へ祈願のために落合《おちあい》の大橋から神酒《みき》一|樽《たる》を流させたことまで、口説《くど》くように書いてよこした。病気の手当ては言うまでもなく、寛斎留守中は大垣《おおがき》の医者を頼み、おりから木曾路を通行する若州《じゃくしゅう》の典医、水戸姫君の典医にまですがって診察を受けさせたこと
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