》の図』なぞの壁にかけられたところで、やがて連中の付合《つけあい》があった。
 主人役の金兵衛は、自分で五十韻、ないし百韻の仲間入りはできないまでも、
「これで、さぞ親父《おやじ》もよろこびましょうよ。」
 と言って、弁当に酒さかななど重詰《じゅうづめ》にして出し、招いた人たちの間を斡旋《あっせん》した。
 その日は新たにできた塚のもとに一同集まって、そこで吟声供養を済ますはずであった。ところが、記念の一巻を巻き終わるのに日暮れ方までかかって、吟声は金兵衛の宅で済ました。供養の式だけを新茶屋の方で行なった。
 昔気質《むかしかたぎ》の金兵衛は亡父の形見《かたみ》だと言って、その日宗匠|崇佐坊《すさぼう》へ茶縞《ちゃじま》の綿入れ羽織なぞを贈るために、わざわざ自分で落合まで出かけて行く人である。
 吉左衛門は金兵衛に言った。
「やっぱり君はわたしのよい友だちだ。」

       五

 暑い夏が来た。旧暦五月の日のあたった街道を踏んで、伊那《いな》の方面まで繭買いにと出かける中津川の商人も通る。その草いきれのするあつい空気の中で、上り下りの諸大名の通行もある。月の末には毎年福島の方に立つ毛付《けづ》け(馬市)も近づき、各村の駒改《こまあらた》めということも新たに開始された。当時幕府に勢力のある彦根《ひこね》の藩主(井伊《いい》掃部頭《かもんのかみ》)も、久しぶりの帰国と見え、須原宿《すはらじゅく》泊まり、妻籠宿《つまごしゅく》昼食《ちゅうじき》、馬籠はお小休《こやす》みで、木曾路を通った。
 六月にはいって見ると、うち続いた快晴で、日に増し照りも強く、村じゅうで雨乞《あまご》いでも始めなければならないほどの激しい暑気になった。荒町の部落ではすでにそれを始めた。
 ちょうど、峠の上の方から馬をひいて街道を降りて来る村の小前《こまえ》のものがある。福島の馬市からの戻《もど》りと見えて、青毛の親馬のほかに、当歳らしい一匹の子馬をもそのあとに連れている。気の短い問屋の九太夫《くだゆう》がそれを見つけて、どなった。
「おい、どこへ行っていたんだい。」
「馬買いよなし。」
「この旱《ひで》りを知らんのか。お前の留守に、田圃《たんぼ》は乾《かわ》いてしまう。荒町あたりじゃ梵天山《ぼんでんやま》へ登って、雨乞いを始めている。氏神《うじがみ》さまへ行ってごらん、お千度《せんど》参《まい》りの騒ぎだ。」
「そう言われると、一言《いちごん》もない。」
「さあ、このお天気続きでは、伊勢木《いせぎ》を出さずに済むまいぞ。」
 伊勢木とは、伊勢太神宮へ祈願をこめるための神木《しんぼく》をさす。こうした深い山の中に古くから行なわれる雨乞いの習慣である。よくよくの年でなければこの伊勢木を引き出すということもなかった。
 六月の六日、村民一同は鎌止《かまど》めを申し合わせ、荒町にある氏神の境内に集まった。本陣、問屋をはじめ、宿役人から組頭《くみがしら》まで残らずそこに参集して、氏神境内の宮林《みやばやし》から樅《もみ》の木一本を元伐《もとぎ》りにする相談をした。
「一本じゃ、伊勢木も足りまい。」
 と吉左衛門が言い出すと、金兵衛はすかさず答えた。
「や、そいつはわたしに寄付させてもらいましょう。ちょうどよい樅《もみ》が一本、吾家《うち》の林にもありますから。」
 元伐《もとぎ》りにした二本の樅には注連《しめ》なぞが掛けられて、その前で禰宜《ねぎ》の祈祷《きとう》があった。この清浄な神木が日暮れ方になってようやく鳥居の前に引き出されると、左右に分かれた村民は声を揚げ、太い綱でそれを引き合いはじめた。
「よいよ。よいよ。」
 互いに競い合う村の人たちの声は、荒町のはずれから馬籠の中央にある高札場《こうさつば》あたりまで響けた。こうなると、庄屋としての吉左衛門も骨が折れる。金兵衛は自分から進んで神木の樅を寄付した関係もあり、夕飯のしたくもそこそこにまた馬籠の町内のものを引き連れて行って見ると、伊勢木はずっと新茶屋の方まで荒町の百姓の力に引かれて行く。それを取り戻そうとして、三《み》つや表《おもて》から畳石《たたみいし》の辺で双方のもみ合いが始まる。とうとうその晩は伊勢木を荒町に止めて置いて、一同疲れて家に帰ったころは一番|鶏《どり》が鳴いた。


「どうもことしは年回りがよくない。」
「そう言えば、正月のはじめから不思議なこともありましたよ。正月の三日の晩です、この山の東の方から光ったものが出て、それが西南《にしみなみ》の方角へ飛んだといいます。見たものは皆驚いたそうですよ。馬籠《まごめ》ばかりじゃない、妻籠《つまご》でも、山口でも、中津川でも見たものがある。」
 吉左衛門と金兵衛とは二人《ふたり》でこんな話をして、伊勢木の始末をするために、村民の集まっているところ
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