日にお寺に引っ込んでいるなんて、そんなお前さまのような人があらすか。」
「そう言うものじゃないよ。用事がなければ、親類へも行かない。それが出家の身なんだもの。わたしはお寺の番人だ。それでたくさんだ。」
婆さんは鉄漿《おはぐろ》のはげかかった半分黒い歯を見せて笑い出した。庭の土間での立ち話もそこそこにして、また裏口から出て行った。
やがて正五つ時も近づくころになると、寺の門前を急ぐ人の足音も絶えた。物音一つしなかった。何もかも鳴りをひそめて、静まりかえったようになった。ちょうど例年より早くめずらしい陽気は谷間に多い花の蕾《つぼみ》をふくらませている。馬に騎《の》りかえて新茶屋あたりから進んで来る尾張藩主が木曾路の山ざくらのかげに旅の身を見つけようというころだ。松雲は戸から外へ出ないまでも、街道の両側に土下座する村民の間を縫ってお先案内をうけたまわる問屋の九太夫をも、まのあたり藩主を見ることを光栄としてありがたい仕合わせだとささやき合っているような宿役人仲間をも、うやうやしく大領主を自宅に迎えようとする本陣親子をも、ありありと想像で見ることができた。
方丈もしんかんとしていた。まるでそこいらはからっぽのようになっていた。松雲はただ一人《ひとり》黙然《もくねん》として、古い壁にかかる達磨《だるま》の画像の前にすわりつづけた。
三
なんとなく雲脚《くもあし》の早さを思わせるような諸大名諸公役の往来は、それからも続きに続いた。尾張藩主の通行ほど大がかりではないまでも、土州《としゅう》、雲州《うんしゅう》、讃州《さんしゅう》などの諸大名は西から。長崎奉行|永井岩之丞《ながいいわのじょう》の一行は東から。五月の半ばには、八百人の同勢を引き連れた肥後《ひご》の家老|長岡監物《ながおかけんもつ》の一行が江戸の方から上って来て、いずれも鉄砲持参で、一人ずつ腰弁当でこの街道を通った。
仙洞御所《せんとうごしょ》の出火のうわさ、その火は西陣《にしじん》までの町通りを焼き尽くして天明年度の大火よりも大変だといううわさが、京都方面から伝わって来たのもそのころだ。
この息苦しさの中で、年若な半蔵なぞが何物かを求めてやまないのにひきかえ、村の長老たちの願いとしていることは、結局現状の維持であった。黒船騒ぎ以来、諸大名の往来は激しく、伊那《いな》あたりから入り込んで来る
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