雲が寺への帰参は、沓《くつ》ばきで久しぶりの山門をくぐり、それから方丈《ほうじょう》へ通って、一礼座了《いちれいざりょう》で式が済んだ。わざとばかりの饂飩振舞《うどんぶるまい》のあとには、隣村の寺方《てらかた》、村の宿役人仲間、それに手伝いの人たちなぞもそれぞれ引き取って帰って行った。
「和尚さま。」
 と言って松雲のそばへ寄ったのは、長いことここに身を寄せている寺男だ。その寺男は主人が留守中のことを思い出し顔に、
「よっぽど伏見屋の金兵衛さんには、お礼を言わっせるがいい。お前さまがお留守の間にもよく見舞いにおいでて、本堂の廊下には大きな新しい太鼓が掛かったし、すっかり屋根の葺《ふ》き替えもできました。あの萱《かや》だけでも、お前さま、五百二十|把《ぱ》からかかりましたよ。まあ、おれは何からお話していいか。村へ大風の来た年には鐘つき堂が倒れる。そのたびに、金兵衛さんのお骨折りも一通りじゃあらすか。」
 松雲はうなずいた。
 諸国を遍歴して来た目でこの境内を見ると、これが松雲には馬籠の万福寺であったかと思われるほど小さい。長い留守中は、ここへ来て世話をしてくれた隣村の隠居和尚任せで、なんとなく寺も荒れて見える。方丈には、あの隠居和尚が六年もながめ暮らしたような古い壁もあって、そこには達磨《だるま》の画像が帰参の新住職を迎え顔に掛かっていた。
「寺に大地小地なく、住持《じゅうじ》に大地小地あり。」
 この言葉が松雲を励ました。
 松雲は周囲を見回した。彼には心にかかるかずかずのことがあった。当時の戸籍簿とも言うべき宗門帳は寺で預かってある。あの帳面もどうなっているか。位牌堂《いはいどう》の整理もどうなっているか。数えて来ると、何から手を着けていいかもわからないほど種々雑多な事が新住職としての彼を待っていた。毎年の献鉢《けんばち》を例とする開山忌《かいざんき》の近づくことも忘れてはならなかった。彼は考えた。ともかくもあすからだ。朝早く身を起こすために何かの目的を立てることだ。それには二人《ふたり》の弟子《でし》や寺男任せでなしに、まず自分で庭の鐘楼に出て、十八声の大鐘を撞《つ》くことだと考えた。
 翌朝は雨もあがった。松雲は夜の引き明けに床を離れて、山から来る冷たい清水《しみず》に顔を洗った。法鼓《ほうこ》、朝課《ちょうか》はあと回しとして、まず鐘楼の方へ行った。恵那山《
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