匹《ばひつ》の群れがこの木曾街道に続くのも、そういう時だ。
三
山の中の深さを思わせるようなものが、この村の周囲には数知れずあった。林には鹿《しか》も住んでいた。あの用心深い獣は村の東南を流れる細い下坂川《おりさかがわ》について、よくそこへ水を飲みに降りて来た。
古い歴史のある御坂越《みさかごえ》をも、ここから恵那《えな》山脈の方に望むことができる。大宝《たいほう》の昔に初めて開かれた木曾路とは、実はその御坂を越えたものであるという。その御坂越から幾つかの谷を隔てた恵那山のすその方には、霧が原の高原もひらけていて、そこにはまた古代の牧場の跡が遠くかすかに光っている。
この山の中だ。時には荒くれた猪《いのしし》が人家の並ぶ街道にまで飛び出す。塩沢というところから出て来た猪は、宿《しゅく》はずれの陣場から薬師堂《やくしどう》の前を通り、それから村の舞台の方をあばれ回って、馬場へ突進したことがある。それ猪だと言って、皆々鉄砲などを持ち出して騒いだが、日暮れになってその行くえもわからなかった。この勢いのいい獣に比べると、向山《むこうやま》から鹿の飛び出した時は、石屋の坂の方へ行き、七回りの藪《やぶ》へはいった。おおぜいの村の人が集まって、とうとう一矢《ひとや》でその鹿を射とめた。ところが隣村の湯舟沢《ゆぶねざわ》の方から抗議が出て、しまいには口論にまでなったことがある。
「鹿よりも、けんかの方がよっぽどおもしろかった。」
と吉左衛門は金兵衛に言って見せて笑った。何かというと二人《ふたり》は村のことに引っぱり出されるが、そんなけんかは取り合わなかった。
檜木《ひのき》、椹《さわら》、明檜《あすひ》、高野槇《こうやまき》、※[#「木+鑞のつくり」、10−17]《ねずこ》――これを木曾では五木《ごぼく》という。そういう樹木の生長する森林の方はことに山も深い。この地方には巣山《すやま》、留山《とめやま》、明山《あきやま》の区別があって、巣山と留山とは絶対に村民の立ち入ることを許されない森林地帯であり、明山のみが自由林とされていた。その明山でも、五木ばかりは許可なしに伐採することを禁じられていた。これは森林保護の精神より出たことは明らかで、木曾山を管理する尾張藩がそれほどこの地方から生まれて来る良い材木を重く視《み》ていたのである。取り締まりはやかましい。
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