ろは、十六代も連なり続いて来た木曾谷での最も古い家族の一つであった。
 遠い馬籠の昔はくわしく知るよしもない。青山家の先祖が木曾にはいったのは、木曾|義昌《よしまさ》の時代で、おそらく福島の山村氏よりも古い。その後この地方の郷士《ごうし》として馬籠その他数か村の代官を勤めたらしい。慶長年代のころ、石田《いしだ》三成《みつなり》が西国の諸侯をかたらって濃州関ヶ原へ出陣のおり、徳川台徳院は中仙道《なかせんどう》を登って関ヶ原の方へ向かった。その時の御先立《おさきだち》には、山村|甚兵衛《じんべえ》、馬場《ばば》半左衛門《はんざえもん》、千村《ちむら》平右衛門《へいえもん》などの諸士を数える。馬籠の青山|庄三郎《しょうざぶろう》、またの名|重長《しげなが》(青山二代目)もまた、徳川|方《がた》に味方し、馬籠の砦《とりで》にこもって、犬山勢《いぬやまぜい》を防いだ。当時犬山城の石川備前は木曾へ討手《うって》を差し向けたが、木曾の郷士らが皆徳川方の味方をすると聞いて、激しくも戦わないで引き退いた。その後、青山の家では帰農して、代々本陣、庄屋、問屋の三役を兼ねるようになったのも、当時の戦功によるものであるという。
 青山家の古い屋敷は、もと石屋の坂をおりた辺にあった。由緒《ゆいしょ》のある武具馬具なぞは、寛永年代の馬籠の大火に焼けて、二本の鎗《やり》だけが残った。その屋敷跡には代官屋敷の地名も残ったが、尾張藩への遠慮から、享保《きょうほう》九年の検地の時以来、代官屋敷の字《あざ》を石屋に改めたともいう。その辺は岩石の間で、付近に大きな岩があったからで。
 子供の時分の半蔵を前にすわらせて置いて、吉左衛門はよくこんな古い話をして聞かせた。彼はまた、酒の上のきげんのよい心持ちなぞから、表玄関の長押《なげし》の上に掛けてある古い二本の鎗の下へ小忰《こせがれ》を連れて行って、
「御覧、御先祖さまが見ているぞ。いたずらするとこわいぞ。」
 と戯れた。
 隣家の伏見屋なぞにない古い伝統が年若《としわか》な半蔵の頭に深く刻みつけられたのは、幼いころから聞いたこの父の炬燵話《こたつばなし》からで。自分の忰に先祖のことでも語り聞かせるとなると、吉左衛門の目はまた特別に輝いたものだ。
「代官造りという言葉は、地名で残っている。吾家《うち》の先祖が代官を勤めた時分に、田地を手造りにした場所だというの
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