紀間の威力を誇る東照宮の覇業《はぎょう》も、内部から崩《くず》れかけて行く時がやって来たかと思わせる。中には、一団の女中方が馬籠の町のなかだけを全部|徒歩《おひろい》で、街道の両側に群がる普通の旅行者や村の人たちの間を通り過ぎるのもある。桃から山桜へと急ぐ木曾の季節のなかで、薩州の御隠居、それから女中の通行のあとには、また薩州の簾中《れんちゅう》の通行も続いた。
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     第七章

       一

 文久《ぶんきゅう》三年は当時の排外熱の絶頂に達した年である。かねてうわさのあった将軍|家茂《いえもち》の上洛《じょうらく》は、その声のさわがしいまっ最中に行なわれた。
 二月十三日に将軍は江戸を出発した。時節柄、万事質素に、という触れ込みであったが、それでもその通行筋にあたる東海道では一時旅人の通行を禁止するほどの厳重な警戒ぶりで、三月四日にはすでに京都に到着し、三千あまりの兵に護《まも》られながら二条城にはいった。この京都訪問は、三代将軍|家光《いえみつ》の時代まで怠らなかったという入朝の儀式を復活したものであり、当時の常識とも言うべき大義名分の声に聴《き》いて幕府方においてもいささか鑑《かんが》みるところのあった証拠であり、王室に対する過去の非礼を陳謝する意味のものでもあって、同時に公武合体の意をいたし、一切の政務は従前どおり関東に委任するよしの御沙汰《ごさた》を拝するためであった。宮様御降嫁以来、帝《みかど》と将軍とはすでに義理ある御兄弟《ごきょうだい》の間柄である。もしこれが一層王室と将軍家とを結びつけるなかだちとなり、政令二途に出るような危機を防ぎ止め、動揺する諸藩の人心をしずめることに役立つなら、上洛に要する莫大《ばくだい》な費用も惜しむところではないと言って、関東方がこの旅に多くの望みをかけて行ったというに不思議はない。遠く寛永《かんえい》時代における徳川将軍の上洛と言えば、さかんな関東の勢いは一代を圧したもので、時の主上ですらわざわざ二条城へ行幸《ぎょうこう》せられたという。いよいよ将軍家|参内《さんだい》のおりには、多くの公卿《くげ》衆はお供の格で、いずれも装束《しょうぞく》着用で、先に立って案内役を勤めたものであったという。二百十余年の時はこの武将の位置を変えたばかりでなく、その周囲をも変えた。三条河原に残る示威のうわさに、志士浪人
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