、同志の中には縛に就《つ》いたものもある。正香は二昼夜兼行でその難をのがれて来たことを半蔵の前に白状したのであった。
正香に言わせると、将軍|上洛《じょうらく》の日も近い。三条河原の光景は、それに対する一つの示威である、尊王の意志の表示である、死んだ武将の木像の首を晒《さら》しものにするようなことは子供らしい戯れとも聞こえるが、しかしその道徳的な効果は大きい、自分らはそれをねらったのであると。
この先輩の大胆さには、半蔵も驚かされた。「物学びするともがら」の実行を思う心は、そこまで突き詰めて行ったかと考えさせられた。同時に、平田|大人《うし》没後の門人と一口には言っても、この先輩に水戸風な学者の影響の多分に残っていることは争えないとも考えさせられた。
「だれか君を呼ぶ声がする。」
正香は戸に近づく人のけはいを聞きとがめるようにして、耳のところへ手をあてがった。半蔵も耳を澄ました。お民だ。彼女は佐吉に手伝わせて客の寝道具をそこへ持ち運んで来た。
「暮田さん、非常にお疲れのようですから、これでわたしも失礼します。お話はあす伺います。お休みください。」
そのまま半蔵は正香のそばを離れて、母屋《もや》の方へ帰って行った。どれほどの人の動き始めたとも知れないような京都の方のことを考え、そこにある友人の景蔵のことなぞを考えて、その晩は彼もよく眠られなかった。
翌日の昼過ぎに、半蔵はこっそり正香を見に行った。御膳《ごぜん》何人前、皿《さら》何人前と箱書きのしてある器物の並んだ土蔵の棚《たな》を背後《うしろ》にして、蓙《ござ》を敷いた座蒲団の上に正香がさびしそうにすわっていた。前の晩に見た先輩の近づきがたい様子とも違って、多感で正直な感じのする一人の国学者をそこに見つけた。
その時、半蔵は腰につけて持って行った瓢箪《ふくべ》を取り出した。木盃《もくはい》を正香の前に置いた。くたぶれて来た旅人をもてなすようにして、酒を勧めた。
「ほ。」と正香は目をまるくして、「君はめずらしいものをごちそうしてくれますね。」
「これは馬籠の酒です。伏見屋と桝田屋《ますだや》と、二軒で今造っています。一つ山家の酒を味わって見てください。」
「どうも瓢箪のように口の小さいものから出る酒は、音からして違いますね。コッ、コッ、コッ、コッ――か。長道中でもして来た時には、これが何よりですよ。」
ま
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