ました。」
 と客は言ったが、周囲に気を兼ねてすぐに切り出そうともしない。この先輩は歩き疲れたというふうで、上がり端《はな》のところに腰をおろした。ちょうど囲炉裏の方には人もいないのを見すまし、土間の壁の上に高く造りつけてある鶏の鳥屋《とや》まで見上げて、それから切り出した。
「実は、今、中津川から歩いて来たところです。君のお友だちの浅見(景蔵)君はお留守ですが、ゆうべはあそこの家に泊めてもらいました。青山君、こんなにおそく上がって御迷惑かもしれませんが、今夜一晩|御厄介《ごやっかい》になれますまいか。青山君はまだわたしたちのことを何もお聞きになりますまい。」
「しばらく景蔵さんからも便《たよ》りがありませんから。」
「わたしはこれから伊那《いな》の方へ行って身を隠すつもりです。」
 客の言葉は短い。事情もよく半蔵にはわからない。しかし変名で夜おそく訪《たず》ねて来るくらいだ。それに様子もただではない。
「この先輩は幕府方の探偵《たんてい》にでもつけられているんだ。」その考えがひらめくように半蔵の頭へ来た。
「暮田《くれた》さん、まあこっちへおいでください。しばらく待っていてください。くわしいことはあとで伺いましょう。」
 半蔵は土間にある草履《ぞうり》を突ッかけながら、勝手口から裏の方へ通う木戸をあけた。その戸の外に正香《まさか》を隠した。
 とにかく、厄介な人が舞い込んで来た。村には目証《めあかし》も滞在している。狭い土地で人の口もうるさい。どうしたら半蔵はこの夜道に疲れて来た先輩を救って、同志も多く安全な伊那の谷の方へ落としてやることができようと考えた。家には、と見ると、父は正月以来裏の二階へ泊まりに行っている。お民は奥で子供らを寝かしつけている。通いで来る清助はもう自宅の方へ帰って行っている。弟子《でし》の勝重はまだ若し、佐吉や下女たちでは用が足りない。
「これはお母《っか》さんに相談するにかぎる。」
 その考えから、半蔵はありのままな事情を打ち明けて、客をかくまってもらうために継母のおまんを探《さが》した。
「平田先生の御門人か。一晩ぐらいのことなら、土蔵の中でもよろしかろう。」
 おまんは引き受け顔に答えた。
 暮田正香は半蔵と同国の人であるが、かつて江戸に出て水戸藩士|藤田東湖《ふじたとうこ》の塾《じゅく》に学んだことがあり、東湖没後に水戸の学問から離
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