ない。」とおまんは言った。「病気する時には病気するがいいなんて自分で言っていながら、そう気をつかうからいけない。まあ、このやさしい羊の目を御覧なさい。」
街道では痲疹《はしか》の神を送ったあとで、あちこちに病人や死亡者を出した流行病の煩《わずら》いから、みんなようやく一息ついたところだ。その年の渋柿《しぶがき》の出来のうわさは出ても、京都と江戸の激しい争いなぞはどこにあるかというほど穏やかな日もさして来ている。宰領の連れて来た三疋の綿羊が籠《かご》の中で顔を寄せ、もぐもぐ鼻の先を動かしているのを見ると、動物の好きなお粂《くめ》や宗太は大騒ぎだ。持病の咳《せき》で引きこもりがちな金兵衛まで上の伏見屋からわざわざ見に出かけて来て、いつのまにか本陣の門前には多勢の人だかりがした。
「金兵衛さん、こういうめずらしい羊が日本に渡って来るようになったかと思うと、世の中も変わるはずですね。わたしは生まれて初めてこんな獣を見ます。」
と吉左衛門は言って、なんとなく秋めいた街道の空を心深げにながめていた。
「半蔵、まあ見てくれよ。おれの足はこういうものだよ。」
と言って、病み衰えた右の足を半蔵の前に出して見せるころは、吉左衛門もめっきり元気づいた。早く食事を済ました夕方のことだ。付近の村々へは秋の祭礼の季節も来ていた。
「お父《とっ》さんが病気してから、もう百四十日の余になりますものね。」
半蔵は試みに、自分の前にさし出された父の足をなでて見た。健脚でこの街道を奔走したころの父の筋肉はどこへ行ったかというようになった。発病の当時、どっと床についたぎり、五十日あまりも安静にしていたあげくの人だ。堅く隆起していたような足の「ふくらっぱぎ」も今は子供のそれのように柔らかい。
「ひどいものじゃないか。」と吉左衛門は自分の足をしまいながら言った。「人が中気《ちゅうき》すると、右か左か、どっちかをやられると聞いてるが、おれは右の方をやられた。そう言えば、おれは耳まで右の方が遠くなったようだぞ。」と笑って、気を変えて、「しかし、きょうはめずらしくよい気持ちだ。おれは金兵衛さんのところへお風呂《ふろ》でももらいに行って来る。」
これほど父の元気づいたことは、ひどく半蔵をよろこばせた。
「お父《とっ》さん、わたしも一緒に行きましょう。」
と彼もたち上がった。
この親子の胸には、江戸の
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