という父を見るたびに、半蔵は悲しがった。さびしい病後のつれづれから、父は半蔵に向かっていろいろ耳にしたことの説明を求める。六十四歳の晩年になってこんな思いがけない中風にかかったというふうに。まだ退役願いもきき届けられない馬籠の駅長の身で、そうそう半蔵任せにして置かれないというふうにも。半蔵は京都や江戸にある平田同門の人たちからいろいろな報告を受けて、そのたびに山の中に辛抱してはいられぬような心持ちにもなるが、また思い返しては本陣問屋庄屋の父の代わりを勤めた。
 中津川の会議が開かれて、長藩の主従が従来の方針を一変し、吉田松陰以来の航海遠略から破約攘夷へと大きく方向の転換を試み始めたのも、それから藩主の上京となって、公卿《くげ》を訪《おとな》い朝廷の御機嫌《ごきげん》を伺い、すでに勅使を関東に遣《つか》わされているから、薩藩と共に叡慮《えいりょ》の貫徹に尽力せよとの御沙汰《ごさた》を賜わったのも、六月の二十日から七月へかけてのことであった。薩藩と共に輦下《れんか》警衛の任に当たることにかけては、京都の屋敷にある世子《せいし》定広がすでにその朝命を拝していた。薩長二藩のこれらの一大飛躍は他藩の注意をひかずには置かない。ようやく危惧《きぐ》の念を抱き始めたものもある。強い刺激を受けたものもある。こういう中にあって、薩長二藩の京都手入れから最も強い刺激を受けたものは、言うまでもなく幕府側にある人たちであらねばならない。従来幕府は事あるごとに京都に向かって干渉するのを常とした。今度勅使の下向《げこう》を江戸に迎えて見ると、かねて和宮様御降嫁のおりに堅く約束した蛮夷防禦《ばんいぼうぎょ》のことが勅旨の第一にあり、あわせて将軍の上洛《じょうらく》、政治の改革にも及んでいて、幕府としては全く転倒した位置に立たせられた。干渉は実に京都から来た。しかも数百名の薩摩隼人《さつまはやと》を引率する島津久光を背景にして迫って来た。この干渉は幕府にある上のものにも下のものにも強い衝動を与えた。その衝動は、多年の情実と弊害とを払いのけることを教えた。もっと政治は明るくしなければだめだということを教えた。
 時代はおそろしい勢いで急転しかけて来た。かつて岩瀬肥後が井伊大老と争って、政治|生涯《しょうがい》を賭《と》してまで擁立しようとした一橋慶喜《ひとつばしよしのぶ》は将軍の後見に、越前《えちぜん
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