を求めるために港内に碇泊《ていはく》しているとのうわさもある。
三
七月を迎えるころには、寛斎は中津川の家を養子に譲り、住み慣れた美濃の盆地も見捨て、かねて老後の隠棲《いんせい》の地と定めて置いた信州伊那の谷の方へ移って行った。馬籠にはさびしく旧師を見送る半蔵が残った。
「いよいよ先生ともお別れか。」
と半蔵は考えて、本陣の店座敷の戸に倚《よ》りながら、寛斎が引き移って行った谷の方へ思いを馳《は》せた。隣宿|妻籠《つまご》から伊那への通路にあたる清内路《せいないじ》には、平田門人として半蔵から見れば先輩の原|信好《のぶよし》がある。御坂峠《みさかとうげ》、風越峠《かざこしとうげ》なぞの恵那《えな》山脈一帯の地勢を隔てた伊那の谷の方には、飯田《いいだ》にも、大川原にも、山吹《やまぶき》にも、座光寺にも平田同門の熱心な先輩を数えることができる。その中には、篤胤大人|畢生《ひっせい》の大著でまだ世に出なかった『古史伝』三十一巻の上木《じょうぼく》を思い立つ座光寺の北原稲雄《きたはらいなお》のような人がある。古学研究の筵《むしろ》を開いて、先師遺著の輪講を思い立つ山吹の片桐春一《かたぎりしゅんいち》のような人がある。年々|寒露《かんろ》の節に入る日を会日と定め、金二分とか、金半分とかの会費を持ち寄って、地方にいて書籍を購読するための書籍講というものを思い立つものもある。
半蔵の周囲には、驚くばかり急激な勢いで、平田派の学問が伊那地方の人たちの間に伝播《でんぱ》し初めた。飯田の在の伴野《ともの》という村には、五十歳を迎えてから先師没後の門人に加わり、婦人ながらに勤王の運動に身を投じようとする松尾多勢子《まつおたせこ》のような人も出て来た。おまけに、江戸には篤胤大人の祖述者をもって任ずる平田|鉄胤《かねたね》のようなよい相続者があって、地方にある門人らを指導することを忘れていなかった。一切の入門者がみな篤胤没後の門人として取り扱われた。決して鉄胤の門人とは見なされなかった。半蔵にして見ると、彼はこの伊那地方の人たちを東美濃の同志に結びつける中央の位置に自分を見いだしたのである。賀茂真淵《かものまぶち》から本居宣長、本居宣長から平田篤胤と、諸大人の承《う》け継ぎ承け継ぎして来たものを消えない学問の燈火《ともしび》にたとえるなら、彼は木曾のような深い山の中に
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