。箕作阮甫《みつくりげんぽ》、杉田玄端《すぎたげんたん》には蕃書取調所《ばんしょとりしらべしょ》の教育を任せる。そういう類《たぐい》のことはほとんど数えきれない。松平河内《まつだいらかわち》、川路左衛門《かわじさえもん》、大久保右近《おおくぼうこん》、水野筑後《みずのちくご》、その他の長老でも同輩でも、いやしくも国事に尽くす志のあるものには誠意をもって親しく交わらないものはなかったくらいだ。各藩の有為な人物をも延《ひ》いて、身をもって時代に当たろうとしたのも彼だ。
瑞見に言わせると、幕府有司のほとんどすべてが英米仏露をひきくるめて一概に毛唐人《けとうじん》と言っていたような時に立って、百方その間を周旋し、いくらかでも明るい方へ多勢を導こうとしたものの摧心《さいしん》と労力とは想像も及ばない。岩瀬肥後はそれを成した人だ。最初の米国領事ハリスが来航して、いよいよ和親貿易の交渉を始めようとした時、幕府の有司はみな尻込《しりご》みして、一人として背負《しょ》って立とうとするものがない。皆手をこまねいて、岩瀬肥後を推した。そこで彼は一身を犠牲にする覚悟で、江戸と下田の間を往復して、数か月もかかった後にようやく草稿のできたのが安政の年の条約だ。
草稿はできた。諸大名は江戸城に召集された。その時、井伊大老が出《い》で、和親貿易の避けがたいことを述べて、委細は監察の岩瀬肥後に述べさせるから、とくときいたあとで諸君各自の意見を述べられるようにと言った。そこで大老は退いて、彼が代わって諸大名の前に進み出た。その時の彼の声はよく徹《とお》り、言うこともはっきりしていて、だれ一人異議を唱えるものもない。いずれも時宜に適《かな》った説だとして、よろこんで退出した。ところが数日後に諸大名各自の意見書を出すころになると、ことごとく前の日に言ったことを覆《くつがえ》して、彼の説を破ろうとするものが出て来た。それは多く臣下の手に成ったものだ。君侯といえどもそれを制することができなかったのだ。そこで彼は水戸《みと》の御隠居や、尾州《びしゅう》の徳川|慶勝《よしかつ》や、松平|春嶽《しゅんがく》、鍋島閑叟《なべしまかんそう》、山内|容堂《ようどう》の諸公に説いて、協力して事に当たることを求めた。岩瀬肥後の名が高くなったのもそのころからだ。
しかし、条約交渉の相手方なるヨーロッパ人が次第に態度を改め
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