も書いてよこした。とうとう養生もかなわなかったという金兵衛の残念がる様子が目に見えるように、その手紙の中にあらわれている。
 平素懇意にする金兵衛が六十三歳でこの打撃を受けたということは、寛斎にとって他事《ひとごと》とも思われない。今一通の手紙は旧《ふる》いなじみのある老人から来た。それにはまた、筆に力もなく、言葉も短く、ことのほかに老い衰えたことを訴えて、生きているというばかりのような心細いことが書いてある。ただ、昔を思うたびに人恋しい、もはや生前に面会することもあるまいかと書いてある。「貴君には、いまだ御往生《ごおうじょう》もなされず候《そうろう》よし、」ともある。
「いまだ御往生もなされず候よしは、ひどい。」
 と考えて、寛斎は哭《な》いていいか笑っていいかわからないようなその手紙の前に頭をたれた。
 寛斎の周囲にある旧知も次第に亡《な》くなった。達者で働いているものは数えるほどしかない。今度十七歳の鶴松を先に立てた金兵衛、半蔵の父吉左衛門――指を折って見ると、そういう人たちはもはや幾人も残っていない。追い追いの無常の風に吹き立てられて、早く美濃へ逃げ帰りたいと思うところへ、横浜の方へは浪士来襲のうわさすら伝わって来た。

       三

 とうとう、寛斎は神奈川の旅籠屋《はたごや》で年を越した。彼の日課は開港場の商況を調べて、それを中津川の方へ報告することで、その都度《つど》万屋《よろずや》からの音信にも接したが、かんじんの安兵衛らはまだいつ神奈川へ出向いて来るともわからない。
 年も万延《まんえん》元年と改まるころには、日に日に横浜への移住者がふえた。寛斎が海をながめに神奈川台へ登って行って見ると、そのたびに港らしいにぎやかさが増している。弁天寄りの沼地は埋め立てられて、そこに貸し長屋ができ、外国人の借地を願い出るものが二、三十人にも及ぶと聞くようになった。吉田橋|架《か》け替えの工事も始まっていて、神奈川から横浜の方へ通う渡し舟も見える。ある日も寛斎は用達《ようたし》のついでに、神奈川台の上まで歩いたが、なんとなく野毛山《のげやま》も霞《かす》んで見え、沖の向こうに姿をあらわしている上総《かずさ》辺の断崖《だんがい》には遠い日があたって、さびしい新開地に春のめぐって来るのもそんなに遠いことではなかろうかと思われた。
 時には遠く海風を帆にうけて、あだ
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