達《だいせんだつ》の言葉、『玉かつま』の第十二章にある本居宣長《もとおりのりなが》のこの言葉は、今の寛斎にとっては何より有力な味方だった。金もほしいと思いながら、それをほしくないようなことを言うのは、例の漢学者流の虚偽だと教えてあるのだ。
「だれだって金のほしくないものはない。」
そこから寛斎のように中津川の商人について、横浜出稼ぎということも起こって来た。本居|大人《うし》のような人には虚心坦懐《きょしんたんかい》というものがある。その人の前にはなんでも許される。しかし、血気|壮《さか》んで、単純なものは、あの寛大な先達のように貧しい老人を許しそうもない。
そういう寛斎は、本居、平田諸大人の歩いた道をたどって、早くも古代復帰の夢想を抱《いだ》いた一人《ひとり》である。この夢想は、京都を中心に頭を持ち上げて来た勤王家の新しい運動に結びつくべき運命のものであった。彼の教えた弟子の三人が三人とも、勤王家の運動に心を寄せているのも、実は彼が播《ま》いた種だ。今度の大獄に連座《れんざ》した人たちはいずれもその渦中《かちゅう》に立っていないものはない。その中には、六人の婦人さえまじっている。感じやすい半蔵らが郷里の方でどんな刺激を受けているかは、寛斎はそれを予想でありありと見ることができた。
その時になって見ると、旧《ふる》い師匠と弟子との間にはすでによほどの隔たりがある。寛斎から見れば、半蔵らの学問はますます実行的な方向に動いて来ている。彼も自分の弟子を知らないではない。古代の日本人に見るような「雄心《おごころ》」を振るい起こすべき時がやって来た、さもなくて、この国|創《はじ》まって以来の一大危機とも言うべきこんな艱難《かんなん》な時を歩めるものではないという弟子の心持ちもわかる。
新たな外来の勢力、五か国も束になってやって来たヨーロッパの前に、はたしてこの国を解放したものかどうかのやかましい問題は、その時になってまだ日本国じゅうの頭痛の種になっていた。先入主となった黒船の強い印象は容易にこの国の人の心を去らない。横浜、長崎、函館《はこだて》の三港を開いたことは井伊大老の専断であって、朝廷の許しを待ったものではない。京都の方面も騒がしくて、賢い帝《みかど》の心を悩ましていることも一通りでないと言い伝えられている。開港か、攘夷《じょうい》か。これほど矛盾を含んだ言葉も
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